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zoom RSS ●日常的な先祖供養のすすめ

<<   作成日時 : 2010/08/17 20:46   >>

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徳を積む行為の高い順にいえば、
まず第一に瞑想すること、
こころを清らかにすることです。

次に説法を聞くことや、説法することです。
次にいろんなことをして生命を助けてあげることなのです。


そのように私たちは精神的なエネルギーを高めていって、
そのエネルギーを自分の亡くなった親戚、
先祖たちに回向してほしい。

それには一周忌とか、四十九日とか待たなくていいのです。


一週間というのは地球上の考え方であって
ほかの次元の生命にはそんなものは関係ないのだから、
常に毎日供養しなければならないのです。


正しく言えば、自分の先祖たちに供養しましょう。
毎日供養するためには毎日善いことをしないといけません。


毎日供養しなさいというと、つい忘れがちになります。

それはとても残念なことです。


一周忌、四十九日など、文化的な決まりがあると、
しっかり供養することは

無視することができない大切な仕事になります。


だから、文化的に定められた日にちで供養することも必要です。


そして、毎日、先祖の恩を思って供養することは、より大事です。



そうすると決めたら毎日善いことをしなくてはいけないことになるから、
供養する本人もみるみるうちに成長し、幸福になるのです。



回向をすると、生きている人間が幸福になるということも確かなのです。



私たちの先祖が回向を受けて幸福になるでしょう。

そうすると、ありがたくてしょうがないのです。



何故かと言えば、徳を積むのは人間でない限りは難しいからです。

特に餓鬼道に堕ちたら徳を積むことは全く出来ない。
天界に行ってもできない。

結局、人間以外の生命はかわいそうなのです。

人間だけは徳を積むことが簡単にできるのです。

そういうチャンスは大事に考えて、決してムダにしてはいけない。
せっかくの人生、いっぱい徳を積んだほうがいいのです。



●毎日善いことをして悪いことは絶対にしない


善いことをしたいという気持ちさえ生まれてくれば、
善いことをするチャンスは、いつでも自分の身の周りにあります。

だからそれほど難しいことではないのです。

そこでその善行為の功徳を先祖に回向して供養してあげると、

その生命は大変幸福になりますから、
向こうからすればありがたくてしょうがないのです。



だから善い波動で私たちをきちんと守ってくれる。
災難からも守ってくれます。



逆に悪いことをすると、本人はどんどん不幸になってしまう。


「私は泥棒しました。私は人を殺しました。私は人を殴りました、
その罪は亡くなった自分の嫌いな人に回向します」といっても
そうはいきません。

向こうは受けませんから。
もし受けたならば、行きます。


でも、たとえば自分の親しい人に
「自分が重病になったからあなたもその病気をあげます」
といったところで、その人は貰ってくれますか?

いくら自分の親しい人であろうと病気はもらいません。


だから悪いエネルギーは相手の意思がなければ入らないのです。


これとは反対に、善いことは自然に入ってしまいます。


旦那だんにすごく嬉しいことがあったとします。
仕事が優秀だったから特別にボーナスが2倍に増えたと。
そうすると、奥さんもいっしょになって喜んでくれるのです。


仏教用語でいえば、旦那さんの喜びに「随喜」するのです。


ちなみに、他人の喜びをいっしょに
喜ぶこのできる性格(喜、ムーディター)

というものは、仏教では、幸福になるために必ず
育てなければいけない、
とても尊い気持ちだと強調しています。



「死後はどうなるの?」A・スマナサーラ長老著書より抜粋

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コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
 「死後はどうなるの?」(国書刊行会)の144頁以下を引用します(スマナサーラ長老の説法)

 戦争に賛成する人は殺人と同じ

 悪いエネルギーも伝わるときは伝わりますが、それは自分の責任です。

 たとえばアメリカがイラクを侵攻したことに「あーよかった」とこころで拍手すると、その殺人に参加したことになります。…中略…

 何もしていないのに人を殺したことになります。

 みんなよくやっていることなので、そこはくれぐれも気をつけたほうがいいと思います。…中略…

 賛成すると、自分が何もやっていないのに、自分の興味だけで殺生の罪が自分にもかかってくるのです。…中略…

 罪の正当化がもっとも危険

 …中略…罪の正当化と並んで、罪の意識がないということも危ないのです。…日本では酒を飲むことがあたりまえになっています。文化的に罪ではないということになっています、残念ですが。
 だからといって罪ではないとはいえないのです。
(引用終わり)

 ブッダの教えを壊すこと、法を破壊することを直接行っていなくとも、それに意識的、無意識的に賛成し、参加することは大きな罪になると思います。
ご紹介
2010/08/17 21:24
はい!ご紹介様

書いて頂いた箇所を次に載せようと思っていた
ところです。掲載ありがとうございました。

何だかね・・・・以心伝心かしらん


あん
2010/08/17 21:31
はじめまして。
『供養』って、何ですか?
『回向』って、何ですか?
具体的には、どうやるのですか?

死後の生命は、存在するのでしょうか?
無我(非我)なら、供養も回向も不可能なのでは?
析空
2010/08/17 22:28
瞑想が一番徳を積むのですね。

今日積んだ少ないかもしれないですが、徳を回向致します。
慈悲と知慧
2010/08/17 22:42
◆供養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはプージャナーの訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。
日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。

◆回向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
回向(廻向、えこう、pariNaama、परिणाम 〈sanskrit〉)、「パリナーマ」とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意で、大乗仏教の特徴をなす考え方である。自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「衆生回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。いわば、自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えることを回向という。
358
2010/08/17 23:28
折空さま、ようこそです!
「無我」を我は無い=なにもない
というのは間違いです。
「私」というのは科学的に具体的にものごとをみれば、
妄想概念だと言っています。
それは各個人が捏造した「私」「我」であると
「変わらない私」「一定の私」などというものは、
どこにもありません。心が作り出した捏造、幻覚です。

しかし、身体が死んでも
こころの波動は消えて無くなるのではありません
身体から離れた「心のエネルギー」というのは
死んだ時のこころの波動に近いところへ
生まれ変わっていくのです。
ですから、永遠の魂とか
固定したものは無く、
常に変化するのですね。

すべては、一瞬たりとも変化しない
感覚の流れがあるだけです。
<結局は何も知らないP112
A・スマナサーラ長老著より引用>

<供養する>のは、
ここでのテーマで書いてる
ように「善行為をしたりして
徳を積む」のです。
死後の世界には
ヤドカリが家を求めるように
「こころのエネルギー」というのは
消えてなくなる事はなく
次の場所が決められている場合もあり
又、決まらずに
この世をさ迷っている生命もいると
言うことです。
<回向する>
徳を積んで
言葉や気持ちをその生命に
伝えてあげると喜ばれると言うことです。
(死後の世界は幾つも
あるので、ここでの説明はは省略
いたします)
以上、簡単な説明でしたが
ごめんなさい


http://www.j-theravada.net/howa/howa130.html
テーラワーダHPを参考にしてください。
あん
2010/08/17 23:29

一般的な解釈は上記のような感じですが、
我々が学ぶ初期仏教の回向は「廻向の文」を読んだ方がピンと来るんじゃないかと思います(私見ですが)

◆廻向の文◆
佛法僧の三宝に礼拝、帰依し、戒を守り、慈悲瞑想とヴィパッサナー修行によって積まれたこの功徳を、神々・先祖・祖父母・両親・親族・恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに回向いたします。
この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸福に暮せますように。そして、解脱が得られますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
358
2010/08/17 23:29
すみません、 358の
23:29のコメントの矢印があんさんのコメントを指しているように見えますが、矢印は358の
23:28のことを指しています。

今日、せがきという行事でお寺さんへ行って参りました。
お袋と一緒に曹洞宗のお寺に行ってきました。
私はテーラーワダーで生きて行こうと思ってます。
お袋にも押し付けずに紹介はしています。
曹洞宗のお寺さんには同じ仏教という名に違和感を感じますが文化として付き合って行くつもりです。親孝行したいのにお寺やお墓を取り上げてはお袋に対して孝行の真逆ですから。

生きとし生けるものが幸せでありますように^^
358
2010/08/17 23:42
ぱんさんのブログに書いたの貼ります。
一番大事なことは、スナマサーラ長老原理主義の方が一人でも多く一刻も早くさとりをひらくことでしょうね。
小池さんは、ご自身もさとっているとは言ってないし、そもそも初めからさとりをひらくために教えているというか在家としてより良く生きることを目的として色々解いていると思います。読者もさとりを目的としている人は小池さん原理主義の方はスナマサーラ長老原理主義の方に比べてかなり少ないと思います。
スナマサーラ長老原理主義の方は、出家も在家も含めてたくさんの方がいらっしゃると思いますか、小池さんやアラナの長老の否定に奔走するのではなく、一心不乱にスナマサーラ長老が生きている間にさとりを目指して修行すべきなのではないでしょうか?
お釈迦様が生きていたらまたスナマサーラ長老もそうおっしゃる気がするのです。
慈悲と知慧
2010/08/18 06:37
続き

今、現在私はスナマサーラ長老原理主義の方で、小池さん原理主義もそうですが、さとったという方を聞いたことがありません。
小池さんについてはともかく、スナマサーラ長老原理主義の方は、当たりくじを引いているのに何故、これだけ長い間、日本に長老がいらっしゃるのにさとりを開いた方がいないのでしょうか?
正確なブッダの教えを残すためには、一刻も早く正確な教えの元に悟った人が現れることが必要です。
小池さんやアラナの長老にかまっている暇など本当はないと思います。
例え、後継者が現れても誰一人もさとれないなら、同じ問題が繰り返えされるだけではと私は思いました。
慈悲と知慧
2010/08/18 06:49
さらに続き

それにここでどれだけ説得しようが小池さんの信者やアラナの長老の信者は無くなりませんよ。
お釈迦様ですら、無理だったわけでしょう。
それより先ずは自分がさとる、それでも未だ余裕があるなら説得なさっても良いと思いますが。
お釈迦様が生きていたら、スナマサーラ長老もそうおっしゃるような気がします。
あんさん、長文失礼しました。
慈悲と知慧
2010/08/18 07:06
「人は自分自身を敵にまわして生きています」
<生きる論>より

今日も穏やかな1日でありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2010/08/18 08:02
358さん、あんさん、回答ありがとうございます。
無我については、もちろん断滅論者ではありません。

供養も回向も、伝統仏教で30年ほど、毎朝、毎晩お経を唱えて実行してきたのですが。

最近は初期仏教を勉強して、供養も回向も釈尊の教えではないのではないか、と考えています。

「村長の問い」と呼ばれる問答があります。
村長(むらおさ)が「死者を良き所に生まれさせることができるか」と、釈尊に問い、以下はその答えですが。。

たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。……
(相応部経典42.6 増谷文雄訳)

つまり、祈り、祈祷では、死者を良き所に生まれさせることはできない、と。
ただ、「その人の生前の行いによるのだ」という答えです。

八正道にも、供養、回向という思想は見当たりません。供養も回向も不可能という話だと思います。

ダンマパダにも、「人を変えることはできない」と。
析空
2010/08/18 10:10
○八正道にも、供養、回向という思想は見当たりません。

この教えは、自分の内なる修行を教えています。
供養とか回向は外に向かって行うことで
ごちゃまぜにしてはイケナイと思います。
機能が違います。
修行して智慧を開発する道です。

○供養も回向も不可能という話だと思います。

初期仏教では不可能とは言ってませんよ
善い行為で、周りの餓鬼や苦しんでいる生命に
喜びを与えることが出来るといわれています。

○ダンマパダにも、「人を変えることはできない」と。

人を変えることは出来ないかも知れないけど
まずは、
自分を変えることは出来るかも知れませんね。
人の過失ばかりに目がいく自分という存在。
自己を知ることがまずは大切かと思います。

コメントありがとうございます!
あん
2010/08/18 10:29
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