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zoom RSS ★思考の中から「私」を捨てる

<<   作成日時 : 2010/12/23 07:10   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 6 / トラックバック 0 / コメント 9

日常生活に苦しいことはつきものです。
そのうえ、様々な問題に遭遇しなくてはいけないのです。
生きるということは、何かしらの問題に遭遇することです。
その問題を解決しなくてはいけないのです。

自分の人生に起こる問題を解決できないというならば、
まっとうな人間として生きていけません。


そこで問題に対して解決策を考えて、判断しなくてはいけない。
どうすればよいのかというこの判断が、とても難しいのです。


あえて何かの判断をしても、
それは正解ではなく、やらなかったほうが良かったのでは
ないかと思えるものになるのです。



なぜ、、私たちは必要なときに、正しい判断ができないのでしょうか。

なぜ、朝から晩まで、生きることにおける様々な問題について考えているのでしょうか。

なぜ、考えれば考えるほど、解決策が程遠くなるのでしょうか。

なぜ、どうすればいいのかわからなくて、困ってしまうことになるのでしょうか。


答えは簡単です。


私たちの思考に、根本的な欠陥があるのです。
この欠陥が、正常な思考の邪魔をしているのです。



思考の中には「私、私の」という感情が入っています。




題について考えているのではなく、
「問題を抱えている自分」のことを考えているのです。

それで解決策が見えなくなるが、
解決策を出してもそれが正解ではなくなるのです。


いくつかの例で言いましょう。

画像


「私の子が夜泣きします。
徹夜してクタクタに疲れている」という問題があります。

解決策を考える母が、どう見ても自分がラクになる方法を
無意識に考えてしまうのです。

そこで「私が」という感情を置いておいて、
「この赤ちゃんが夜泣きしている。

この赤ちゃんに、何が問題があるのでしょうか」と考えてみるのです。

すると、いろいろな発見があるはずです。

たとえば、赤ちゃんが朝も晩もほとんど寝ている。
起きて遊んだりすることがない。それを発見したところで、

1、私も赤ちゃんの寝ているときに、できる範囲で寝て休もう。
2、日中、いろいろ工夫して赤ちゃんと遊んで二人で楽しもう。

というような解決策が見えるでしょう。

夜泣きする理由はまだたくさん有りますが、
「この赤ちゃんは」というスタンスで考えると、
その原因と解決策が見えてくるのです。



会社の会議で、「これが私の意見です」と出す人が、問題を作ります。

自分の意見だから、立派な意見をださなくてはいけない。
必ず通る意見を出さなくてはいけない。


皆、両手を挙げて賛成する意見を出さなくてはいけない。

しかし、実際はそんなものはないのです。

代わりに、「私の」という主観を捨てて、

「この問題について何を言えばよろしいでしょうか?」と考えれば、

皆、参考にせざるを得ない意見を言えるでしょう。
その意見の短所を指摘されても、

「ああ、そうですか、気づかなかった」と言えるような人間になるのです。


却下された、非難を受けた、無視された、ウケなかった、
等々の苦しみが消えるのです。



「私」と「私の」という修飾語を除けて、物事を観察すると、
問題を明確に見られるし、
解決策も見えてくるのです。

それだけではありません。
その解決策には、実効性があるか否かということも見えてくるのです。


次に、実効性のある解決策も見えてくるのです。
自分が出した解決策が一時的なものであるならば、それも知っているのです。


経済状態が悪化して、今まで通りの品物を売ってもうまくいかない場合でも、
時々、「この会社を設立した創業者に逆らってはならない」と、
会社をさらに苦しみに落とし入れる人もいます。

自分という「私」をたとえ捨てても、
創業者の「私」を受け取ったところで、また元通りになるのです。

知識人たちは社会や国の様々な問題について、
微に入り細に入り時間をかけて
議論するのですが、解決策は出さないのです。



いや、出せないのです。
その理由は、知識人として皆に非難されるようなヤバイ意見は出してはいけない、
という「私」が思考の中に入っているからです。


「私」というエゴを守ろうとする知識人も、科学者も、政治家も、活動家も、
役に立たないのです。


「私」を主張する母は、いいお母さんにならないのです。
「私」を主張する父は、家族に無視されるのです。



思考から「私」を捨てたほうがよいのです。




「くじけないこと」アルボムッレ・スマナサーラ長老著書より

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
 「ヴィパッサナーという言葉は、経典にはない」ということを仰る方がしばしばいらっしゃいます。たとえば、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050785100

 これに対するテーラワーダ側からの反論を一度も見たことがないのでコメントしたいと思います。

 パーリ経典(中部経典第131「Bhaddekaratta-sutta」)に「vipassati」(ヴィパッサティ)という単語が出てきます。

 スマナサーラ長老の説法を引用します。

 ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー」とは何でしょうか。

 パーリ語の「ヴィ」は「明確に」を意味し、「パッサティ」は「観察する、見る」を意味します。

 ですから「ヴィパッサナー」とは、「明確に観ること」。

 (引用終わり。「自分を変える気づきの瞑想法」サンガ86頁以下)

 ですから、ヴィパッサナーは、パーリ経典に言葉があります。その一つが、中部経典第131「Bhaddekaratta-sutta」です。

 日本では、そのお経の一部が、「日々是好日」経として有名ですね。
 
 「ヴィパッサティ」、「ヴィパッサナー」の違いは、格変化かなんかではないかと思いますが、私はパーリ語の語学的な部分は詳しくありませんので、お分かりの方は補充して頂ければと思います。

 大きな功徳になるのではないかと思います。
 
ヴィーナス
2010/12/23 08:12
おはようございます。

私という感情を捨てて、問題点だけをピックアップする。なるほどです。「ではどうする?」ということだと思いました。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2010/12/23 08:48
ヴィーナスさんの投稿を見て思ったのですが、いっそのこと「ヴィパッサティ瞑想」にしてはどうでしょう。たぶん、マハーシ長老が勝手に、ヴィパッサナーとかにしたんだと思います。それはその当時のミャンマーでは必要なことだったんでしょうが、そこら辺の事情はよくわかりません。ヴィパッサナーでもヴィパッサティでも、大差ないと思いますから、それならいっそのこと、お釈迦様の言葉という原点回帰することが、現代の仏法僧には必要なんではないですか。などと偉そうなことを書きました。釈迦に説法かもしれません。
ぱん
2010/12/23 09:03
 続きです。格変化ではなく、動詞の名詞化などの可能性もあります。

 それで、先に引用した最初の方のURLにおいて、こういうことを書いている人がいます。

 所依の経典としてよく参照されるのは、南伝では「マハサティパッターナ・スッタ(大念住経、長部経典第22)」や、「中部経典」の「四念処経(第10経)」「アーナパーナサティ・スッタ(安那般那念経、第118経)」などがある

(引用終わり)

 しかし、アーナパーナサティ・スッタは、ヴィパッサナーの根拠経典ではありません。

 アーナパーナ「サティ」という単語が見られますが、ヴィパッサナーではなく、サマタ瞑想(サマーディ瞑想)としての呼吸瞑想の根拠経典だと思います。こちらにスマナサーラ長老の説法があります。

 http://gotami.j-theravada.net/2009/09/-anapanassatisutta-dhammacast.html

 マハーサティパッターナ・スッタ(大念処経)、四念処経は、ヴィパッサナーの根拠経典ですが、おそらくヴィパッサナーという言葉そのものは出てこないと思います。

 私は、四念処経はパーリ原文で読んだことがないのですが、大念処経はスマナサーラ長老の説法を通じて読んだことがあります。
 
 その際には、ヴィパッサナーという言葉は出てこなかったように記憶しています。
 ヴィパッサナーの詳しいやり方は説かれていますが、ヴィパッサナー、あるいは、ヴィパッサティというパーリ単語は出てこなかったと思います。

 しかし、先に述べましたとおり、中部経典第131「Bhaddekaratta-sutta」にヴィパッサティというパーリ語が出てきて、それがヴィパッサナーだと思います。
ヴィーナス
2010/12/23 09:17
先日の名古屋での長老の事務局長の法話メモと繋がります。
人の話を聞く時は、まず自分をおいてその人の立場に立って聞く。
文字だけを知識として読むと当たり前のことのように思えますが、知慧で読むと結構深いです。

生きとし生けるものが幸せでありますように
慈悲と知慧
2010/12/23 10:06
ヴィパッサナー
「run」が「runner」に変化するような
そんな活用変化なのかと、単純に思ってしまいました。

上司から言われることも、「私」を入れずに
「情報だけとらえる」と
冷静に分析し判断できると思いました。
生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2010/12/23 12:23
私・私ってエゴは、はたから見るとみっともない、かっこ悪い、COOLでないと思います。
でも自分のことを、はたから見られないから多くの人はみっともない生き方をしています。
自分もそうです。
みっともないのが嫌、かっこ悪いのが嫌、COOLでないのが嫌なら客観視・観察ですよね。

ありがとうございます。

生きとし生けるものが幸せでありますように
358
2010/12/23 13:30
今日は天皇さんというお方かな、誕生日だそうですね

天皇家は、上手に言葉使いますよ

私と同じだね

感じていますとか。いい言葉づかいをされますね

思います。とかいい言葉使いますね

使うんじゃなくて、そのものなんでしょうけど

結構、大好きです



才木広之
2010/12/23 21:14
ちょっと私的な感じですが

お写真、すごくかわいいですね

【何かしてあげること、そのものが、そのまま、自分の幸せ】

といった感じを、受けます

六歳ぐらいかな、そんな感じのお子さんに見えますが

まったく同じ表情を、ご老人にも見られます

私も、このお子さんのような心に戻りたいです

少し感傷的ですが、今この汚れた心を、素直に人のために自分が何かしてあげることが、喜びだったころに、戻してあげたいです

生きるのは、つらいけども、くじけるけれども

慈悲の冥想で、粘り、ヴィパッサナーで、発見です
才木広之
2010/12/23 21:23
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