幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ★貪・瞋・痴はたちの悪いウィルスです

<<   作成日時 : 2010/12/29 06:25   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 6 / トラックバック 0 / コメント 29

Q;現代社会は善悪の価値観がしっかりせず混乱していると
思うのですが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは現代社会だけではなくて、古代社会でも、未来社会でも、
いつでも善悪判断の価値観は混乱しているのです。



なぜならば、貪・瞋・痴しか人間には衝動がないのですからね。
だから混乱してしまうのです。



「貪りはなぜ悪いのか」ということになってしまうのですよ。

けれども「やはり貪りはよくない」と判断できるところもありますし、
だから混乱するのです。



先ほども述べたように、自分が好きなものを
普通に買ったり遊んだりすることは悪くないのです。

何かを盗んででも手に入れようとするのが悪いのです。
一部の欲は大丈夫で、一部の欲は悪い。
だから混乱するのですね。


ある一定のところまでの欲や怒りはいい、
それ以上の欲や怒りは悪いということだから、
混乱してしまうのです。



画像


貪・瞋・痴というのは結局は悪い感情であること、

貪・瞋・痴はどうせ善い結果は出してくれないことが
わかってしまえばいいのですが、

それはなかなかわかりにくいでしょうね。



やはり貪・瞋・痴が消えると何もなくなってしまうように
錯覚してしまうのですね。


たとえでお話ししますと、

貪・瞋・痴というのは
危険なウィルスのようなものです。

病気は発症していないのだけれど、危険なウィルスを
身体に持っている人をキャリアというでしょう。


10年間、40年間、80年間でも、キャリアのまま
健康で元気でいるかもしれません。
けれども検査をすると、やはりそのウィルスがいるのです。



私たちは貪・瞋・痴というウィルスのキャリアなのです。
これが突然に発病すると、自己破壊になるのです。



発病さえしなければ健康な人と変わらないのですが、
「危険なウィルスのキャリアは素晴らしい」ともいえないのですね。

もちろんキャリアではない方がいいのです。
すべての生命は貪・瞋・痴のキャリアなんです。



それで自分のせっかくの幸せを壊してしまうのです。
ですから、異常な怒りと異常な欲をコントロールして、
発病しないようにしなければなりません。


そのために必要なのは、常に明晰な理性を持っていることです。

いつでも智恵や知識をよく使って生きていることです。


その生き方が善的な生き方で、貪・瞋・痴の感情に負けて
行動することが悪の生き方なんです。


人が悪行為を犯す時は、自分で自分をコントロールできない状態に
陥っているのです。

冷静にものごとを考えることができないで、
感情に負けて、感情に操られている状態なんですね。

貪・瞋・痴という感情は心の中に潜在的に
寝ているウィルスですから、やはり危険なのです。



画像


そこで、「心を清らかにする特別な訓練をして、


きれいに貪・瞋・痴を洗ってしまおう」というのが仏教の修行の世界です。



それは別世界で、善悪の道徳の世界ではありません。
道徳の話は、我々が本来持っている貪・瞋・痴のウィルスが
発病しないようにする行き方を説くことなのです。


「幸福に至るYESとNOの法則」
アルボムッレ・スマナサーラ長老著書より

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コメント(29件)

内 容 ニックネーム/日時
 怒りとは何でしょうか?

 怒っているときヴィパッサナーをすると、心臓の鼓動が速くなったり、呼吸が荒くなったり、頭がカーッとなった、肩がこわばったり、色々な変化が現れたことを観察できると思います。

 しかし、それは心臓の鼓動が早くなったという実感であり、呼吸が荒くなったという実感であり、頭がカーッとなったという実感であり、肩がこわばったという実感なわけです。

 怒りそのものではありません。

 怒りを引き起こす思考には気づくことができると思いますが、「怒り」そのものはどこにも見当たりません。

 実は、それが厳密なレベルでは、正しい観察だと思います。

 協会の掲示板に掲載されたスマナサーラ長老の法話メモを引用します。
 
 表面には出ていないが、心の中で煩悩が繁殖しています。本人は気づきません。…
 ブッダの煩悩の説法は、アーサワ状態(についての説法)です。
 
 自覚できないレベルの煩悩について語っているので、理解したような理解しなかったような状態で終わるのです。…中略…
 
 舞台に出て活動している煩悩は、仏教では煩悩とは言いません。
 
 その場合はアクサラ(不善)、パーパ(罪)(と言います。)(引用終り)

 ですから、ヴィパッサナー修行が進まない限り、実は、貪瞋痴も知らない、ということになると思います。貪瞋痴は、自覚できないレベルの煩悩だからです。

 貪瞋痴がアーサワレベルの煩悩であることについて、スマナサーラ長老が説かれたものとして、協会施本「感動した!」の落とし穴、23頁があります。
ヴィーナス
2010/12/29 08:28
おはようございます。

心が支配者だから大変な問題ですね。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2010/12/29 08:47
 続きです。

 今回のあんさまのブログ記事は、以上のことをを踏まえないと深いレベルでは理解できないと思います。

 『アーサワ』レベルの貪瞋痴が、アクサラ(不善)、パーパ(罪)に「発病」しないうちに手を打つのが仏道である、ということになると思います。

 アーサワレベルの煩悩が発病しないうちに手を打つということは、上記法話メモにおけるスマナサーラ長老の生の説法において長老が仰っておられたように記憶しています。

 それと、アーサワレベルの貪瞋痴に気づくことができるのは、ヴィパッサナーがめちゃくちゃ進んだときだと思います。

 インダラタナ長老は、パティパダーB.E.2553/2010 4月号39頁上段において、以下のように仰っておられます。

 私たちは段階を追って物事を別々に知り分類することができるようになります。

 そしてついには心と心の中にひそむ埋め込まれた漏(aasava:アーサワ、煩悩)とを分け出すことが可能になります。心にはもはや何も残っていません。これが冥想実践の結果です。

 (引用終わり)

 自分がヴィパッサナーが進んでいると思いたいがために、「これが貪瞋痴である」と結論付けてしまうと、そこで、「修行はおしまい、成長の見込みなし」ということになってしまうと思います。

 「貪瞋痴」という一見簡単にみえる教えでも、本当はブッダの教えである以上、深遠な教えであり、まだまだ先がある、という気持ちでいる人々の方が、成長の見込みがあるのだと思っています。
ヴィーナス
2010/12/29 08:59
記事とコメント共に参考になりました。


生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2010/12/29 11:00
 続きです。私が上のような長文コメントをいたしましたのは、こういう理由からです。

 今回のあんさまのブログ本文は、中学生でも言葉そのものは理解できるものだと思います。

 しかし、その中身は、ブッダの教えの教えの深遠な部分を語っておられ、スマナサーラ長老は、中学生にも理解できる言葉で、最高難度の解脱に導く能力をお持ちであるということです。
 ウィルスのキャリアの譬えなどは、実に見事なものだと思います。

 ところが、スマナサーラ長老は中学生レベルのことしか語っていない、初心者レベルのことしか語っていないと、とんでもない無知で勘違いしてアビダンマに走る人もいるわけです。

 ところで、昨日『2010-12-28(火)19:00〜21:00』までは、東京のゴータミー精舎においては、自主冥想会がありました。

 かつては、この冥想会の進行役は、ワンギーサさまが中心で、時々ヤサさんでした。

 現在は、金曜日には進行役はおらず、火曜日だけ在家の人が進行役をやっています。

 協会のボランティアの方に聴いたのですが、以前のやり方はスリランカ方式で、現在のやり方は、ミャンマー方式だそうです。

 ただ、現在の進行役の人は、基本的に、スマナサーラ長老以外全く相手にしない人ですが。

 それで、これだけの事情ではないのですが、お坊様と在家の人が接する機会が少なくなっているということを事務局のボランティアの方から伺ったことがあります。

 ワンギーサさまはゴータミー精舎の近くに居住しておられるわけですし、ヤサさんは、ゴータミーに住んでおられるわけですから、自主冥想会の進行役をやられて、在家の人との接点を持たれてもいいのではないかな?と思ったりします。

 ただ、冥想指導をされるとなると別の問題がありますが。あくまで進行役ということで。
ヴィーナス
2010/12/29 11:11
 アーサワという単語は、パーリ経典によく出てくると思います。
 パーリ語では&acirc;savaです。

 ですが、文字化けするかもしれませんので、言葉で説明しますと、asavaの最初のaの上に、 ̄のような横棒線をつけたり、^のような山形をつけたりして表示するようです。

 これは、「アー」と長く伸ばして発音する長母音と言われるもののようです。
 何もつかないaは「ア」と短く発音するわけです。

 ちなみに、i、 u という母音もaという母音とおなじ扱いなのですが、e、oについては、長母音しかなく、つまり、「エー」「オー」と長く読む母音しかないので、e、oしかありません。

 ただし、e、oのすぐ後に子音や半母音が連続しているときは、エ、オと短く発音するそうです。詳しくはこちらをご覧ください。
 http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-1.html

 スマナサーラ長老がアーサワと同じレベルの煩悩として説法されておられるのがキレーサだと思います。パーリ語で「kilesa」です。

 例えば、上記協会施本「「感動した!」の落とし穴」23頁に記載があります。

 いずれも一般には「煩悩」と訳されるのですが、スマナサーラ長老御自身としてはあえて「感情」と訳されるそうです。このことも上記協会施本23頁で説かれています。

 アーサワ、キレーサは、よくパーリ経典で観られる単語だと思います。
 覚えておかれると、スマナサーラ長老の説法を拝聴する際に、一見簡単そうなことを説法されていても、かなり深いことを語られているということがすぐに分かるのではないかと思います。

 パーリ語の発音は簡単にかじった程度ですので、間違いありましたらご指摘ください。
ヴィーナス
2010/12/29 12:26
とても貴重な解説をありがとうございました。
納得できます。
人間の本能にある煩悩を絶つ
根源を探る行為は、そんなに容易ではないという
ことですね。うわべだけで実践しても
身につかないということが良くわかります。
容易でないのなら、ますます
やる気が出てきます。
生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2010/12/29 12:52
月、火と、仕事の研修でした。ああいう研修を受けていると、講師に対してものすごく怒りを感じます。また自分が暗い思考ばかりであることを痛感しました。ただ、それは八正道の理解のためには、それくらい厳しい方が、くじけそうになるくらい厳しい方がいいのでしょうが。さて、これで仕事については一段落と思ったら、ヴィーナスさんのコメント、参考になります。年末はそうですね。心も掃除じゃなく、大掃除しないと、心の奥底の汚れには気づかないのかもしれません。私はいつも、掃除機をちょっとかける程度のヴィパッサナーでしたが、ヴィーナスさんのコメントを読み、大掃除しなきゃと思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
ぱん
2010/12/29 12:57
 たとえば、アーサワというパーリ語の単語は、ダンマパダ292、293に出てきます。ですから、この偈文は相当に深いことが説かれていることがそのパーリ単語だけからでも推察できるわけです。
 
 この偈文についてのスマナサーラ長老の説法はパティパダーB.E.2553/2009 9月号巻頭法話にあります。
 
 ここでは、アーサワを「本能」に譬えておられます。

 本能というのは、分かったようで分からない概念ですね。生物学で十分に説明がつかないものは本能という説明で片付けるというところがあるように思います。宗教でいう「神」みたいなものです。

 そういう分かったようで分からない「本能」という概念が、先に引用しましたスマナサーラ長老の説法でいうアーサワの「理解したような理解しなかったような状態」に対応していて、まさにぴったりの譬えだと思います。
 
 キレーサが出てくる偈文としては、ダンマパダ88があります。

 cittaklesehiというパーリ語が出てくるのですが、これはcittaとklesehiに分けることができると思います。

 このklesehiというのは、kilesa(キレーサ)が格変化したものと思います。ちなみに、cittaは「こころ」の意味でこれも頻出パーリ語だと思います。

 格変化は、ちょっと、難しくなりますが、こちらの資料(http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp87-99.pdf)の最後の方を読んで頂くと、m.pl.Abl.という記載がありますから、m.(男性名詞)、pl(複数形)、Abl.(奪格)の格変化かと思います。

 詳しくはこちらをお読みください。http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-2.html
ヴィーナス
2010/12/29 15:08
 続きです。私は、個人的には、パーリ語を細かく勉強するということはお勧めしません。
 スマナサーラ長老の説法から、自然にパーリ語を学んでいくという方向性をお勧めします。

 それは、細かい部分に眼を奪われて、ブッダの教えの大意を把握できなくなる危険があると思うからです。

 ですが、上に少し細かくパーリ語のことを説明いたしましたのは、パーリ語においては言葉がつながることがあることや、格変化があることは知っておかないと、せっかくアーサワ、キレーサという単語を知っても、具体的な文章で見抜けなくなってしまうと思うので、コメントさせて頂きました。

 ですから、男性名詞とか、複数形とか、奪格とか別に知らないでいいと思うのですが、パーリ単語、例えば、kilesaが、他の単語とつながったり、形がかなり変わることがあるということは抑えておいた方がよいのではないかという気持からコメントさせて頂きました。

 ちなみに、格変化について、私自身詳しくはありませんので、もし誤りありましたらご指摘頂ければと思います。
ヴィーナス
2010/12/29 15:17
朝からしっかりと大掃除できました^^
今年の大掃除は怒りの気持ちも現れることなく、途中で寝っ転がってテレビに見入ることなく、淡々とピカピカにできました
「幸せに生きる」とは、このような事だと実感

テーラワーダのお陰、スマナサーラ長老のお陰、ダンマサークルの皆さんのお陰、あんさんのブログのお陰、皆さんのコメントのお陰で
少しはまともな人間になったかなって思える自分がいます

ありがとうございます

生きとし生けるものが幸せでありますように
358
2010/12/29 15:34
358さん

すばらしいですね。
励みになります。
慈悲と知慧
2010/12/29 16:09
358さん

すばらしい実践ですね。
我が家も是非、修行道場にして頂けましたら
幸いですぅ

パーリ語は3日間だけ講習に行きました。
勉強は嫌いでは無かったです。
お昼ご飯に○○さんが作ってくださる
お味噌汁も美味しかったです。
ただ、辞書を見るのが苦痛になってきて
無理だと諦めました。感謝でした!
あん
2010/12/29 20:37
 協会施本「八正道大全」をお持ちの方は多いと思います。スマナサーラ長老がお釈迦さまの「大四十経」を説法されたものです。

 そこにアーサワが沢山出てきます。ただ、接頭辞がついてますね。

 例えば、anという接頭辞がついています。よく観ると、「あん」に観えてきます。

 この経典は結構asavaが出てきます。

 それだけに、先に述べましたとおり、深遠な内容の経典であるということが、スマナサーラ長老の説法をお読みになられる以前に、推測できると思います。
ヴィーナス
2010/12/29 21:25
年末年始のお供にどうぞ!

アラナ仏教検定 http://p.tl/zP9Y 10級〜7級まで問題公開中

※協会公式の検定ではありません。

日本テーラワーダ仏教協会のツイートに上のようなものがありました。少しやってみたところ、10級は全問正解でした。まだ10級しかやってませんが、自分がどの程度、知識あるのかわかるので、いいと思います。
ぱん
2010/12/29 21:30
ヴィーナスさん

ヴィーナスさんのコメントの影響で施本『八正道大全』を最近読みました。一通り理解できたと思っていましたが、アーサワというのが出てくるとは、思いませんでした。また施本『八正道大全』を読み返したいと思います。
ぱん
2010/12/29 21:32
新年号のパティパダーで、協会のDVDのリストがありますが、『八正道大全』は太字で書かれている上に、4200円します。普通は2100円です。もう一つ4200円のがあり、それが『大念処経』なのです。値段が高いから重要ってわけでもないんでしょうが、高いのにはそれなりに理由があると思ってました。また、施本として配る。施本は作る側にしてみれば、金がかかるわけだから、無料で配るのにはそれなりに理由があるはずなのです。その理由が、ヴィーナスさんのコメントによって、少し鮮明になってきました。
ぱん
2010/12/29 22:13
『八正道大全』はDVD持ってます。普通の二倍するのは二枚組だからです。『大念処経』もそうです。
因みに大〜の方はテープの時代は全部で一万円以上したと思います。

八〜は未だ施本は読んでませんが、DVDにおいては実況中継の仕組みについて少し言及されてましたが、布施本では書いてないみたいですね。


慈悲と知慧
2010/12/29 22:44
 私のコメントというのは、ぱんさんのブログでのコメントかな?

 私は、単純だから、施本はスマナサーラ長老の説法に感動した方々が、世に広く広めたいという気持ちで無料の施本にしたのではないかなと思っています。

 たとえば、こちらにしばしばコメントされておられるchoさまは特に感動された方ではないでしょうか?

 おそらく施本「八正道大全」は、choさまがスマナサーラ長老の説法に感動することがなければ、出来上がることはなかったのではないかと思います。
 そして、choさまが感動されたことでテキスト化され、それがパティパダーに掲載され、施本にまでなったと思います。そこには、他の方々の感動も付け加わったと思います。

 ただ、やっぱり生の説法には到底及びませんし、DVDと比較しても重要部分でカットされているところはあると思います。

 たとえば、

 「自分で聖なる境地に達しているということは大事な必須条件なんです。
 でない限り、説明しても決して仏陀の言葉にはならないんです。
 それは無理です。
 だったら何で説明する自由があるのかというと、そうでないと一般の人は仏道の方に上がっていかないんですよ。」
 という部分は、施本ではカットされていると思います。
ヴィーナス
2010/12/29 23:04
『八正道大全』P46〜47に、こうあります。


1.Sasava(最初と最後のaの上に-)サーサワー 有漏の

 煩悩が入っているという意味です。煩悩と言っても、衝動・ポテンシャル(潜在力)を持っている正見で、悪ではありません。

(中略)

5.anasava(二つ目と最後のaの上に-)アナーサワー 無漏の

 何のポテンシャルも、何の煩悩もない。


以上のような説明があります。asavaとsasavaと、『八正道大全』だと頭にsが付いているので、こういうことは調べだすときりがなくなりそうですから、ここら辺にしますが、たしかにヴィーナスさんが言うように、asavaは、煩悩という意味に間違いなさそうです。
ぱん
2010/12/29 23:25
 そして、asavaは46〜47頁より後の頁においてもまだまだ出てくるわけです。例えば、51頁、52頁においては、anasavacittassaというパーリ語が出てきます。

 このパーリ語は、an asava cittassaに分けることができると思います。
 
 cittaは前に説明しましたが「心」ですね。
 cittassaで「心の者」という訳になるようです。

 asavaは、このコメント欄の最初の方でスマナサーラ長老の説法を引用しましたが、(潜在的な)「煩悩」の意味と思います。

(スマナサーラ長老の訳では(潜在的な)「感情」の意味)。なお、(潜在的)は引用者の補充。

 anは否定の接頭辞だと思います。

 否定はaの接頭辞が用いられることが経験的に多いですけど、asavaについては、aの接頭辞だと、aasavaとなって発音がしにくいのでanが接頭辞となるのでしょうか? よく分りません。

 ただ、当たっているかどうかは分かりませんが、こうして考察しておくと忘れにくくなるように思います。

 その後の頁においても、形をかえたり、接頭辞をつけたりして、asavaはくり返し出てきます。たとえば、72頁「anasavo」、77頁、96頁など。
ヴィーナス
2010/12/29 23:54
 ちなみに、anという否定の接頭辞で有名なのは、「アナッタン」だと思います。意味は、「無我」です。
 
 つまり、attan(我、自己、魂)にanという否定の接頭辞をつけて「アナッタン」とすると、「無我」の意味になると思います。

 attan(アッタン)は、サンスクリット語にすると、アートマンですね。こちらの言葉は超有名で聞いたことがある方が多いと思います。

 こうして関連付けていくと、さらに忘れにくくなりますし、応用能力や推測能力(違う単語をみたときに、aやanをみて、否定の接頭辞ではないか?と推測できたりする)がつくように思います。
ヴィーナス
2010/12/30 00:27
 ごめんなさい。一カ所訂正します。
 
 2つ前のコメントで、cittassaで「心の者」という訳になるようですと述べました。

 しかし、cittaが心の意味であることはよいと思うのですが、cittassaが「心の者」というのは間違っていると思います。
 cittassaは、「心の」という意味だと思います。

 協会の施本52頁には、anasava cittassaを「無漏の心の者」と記載してありますが、これはおそらく間違いで、スマナサーラ長老のミスではなく、編集者のミスだと思います(責めているわけではありません)。

 anasavacittassa 「samangino」で、無漏の心の者の意味ではないかと推察します。協会の施本ではsamanginoが抜けていると思います。

 ちなみに、漏は煩悩(感情)の意味でasavaの訳です。無はanの訳です。

 パーリ原文では、「@ariyacittassa Aanasavacittassa Bariyamaggassa Csamangino」となっていて、協会の施本では、@AがCにかかっていないように編集者は編集してますが、@AがCにかかっていると思います。
 
 つまり、図式的には、(@AB)Cが正しいと思います。施本の編集者は、BだけがCにかかるとしています。
 
 私はパーリ辞典も持っておりませんので、ほとんどスマナサーラ長老の説法を拝聴した経験だけに基づいて意見を述べておりますので、間違いがありましたらご指摘ください。
ヴィーナス
2010/12/30 01:48
 私の経験上、人を現す単語は、oで終わることが多いということもあります。

 たとえば、イティヴッタカ52において、お釈迦様は、このようなパーリ語を述べられております。

 Samahito sampajano sato buddhassa savako

(サマヒトー サンパジャーノー サトー ブッダッササーワコー)

 このパーリ語をスマナサーラ長老はこのように訳されています。
 Samahito  サマーディがある人
 sampajano  物事をよく理解している人
 sato     サティーがある人
 buddhassa savako ブッダの弟子達 

 このように人を現すパーリ単語はoで終わることが多いというのが私の一つの経験則です。

 そして、buddhassaというのは「ブッダ『の』」と訳されるわけで、これは上記cittassaが「心『の』」と訳されるのと同じだと思います。
 
 buddhassaは、buddhaの格変化(属格)で、つまりは、「ブッダ」(buddha)が「ブッダの」(buddhassa)に変化しているわけです。
 
 これと、cittassaは同じことであり、「心」(citta)が「心の」(cittassa)に変化しているわけです。多分。 
ヴィーナス
2010/12/30 01:49
その点については、施本の本文を読めばわかることだと思います。片山先生の訳を使用されてますね。

しかし、片山先生の訳も意味としては矛盾してないように思います。

例えば、「それは、赤く、形がよく、生きのいい薔薇だ」という文章は、「それは、赤い薔薇であり、形のいい薔薇でもあり、そして生きのいい薔薇だ」と表現しても、意味内容としてはおかしくないと思います。

一般的に、Aであり、Bであり、そしてCである者。とは、Aの者であり、かつそれはBの者であり、そしてCの者である。と、同義の文章に書き換えられるという意味で、私は理解してます。

以上はパーリ語からではなく、あくまで論理的に導き出したものです。

2010/12/30 04:23
 新さま。多分、勘違いされたかのだと思うのですが、私が協会の施本「八正道大全」で指摘させていただきましたのは、施本52頁の、解説文章の「項目」の部分です。
 
 「1 ariya cittassa 聖なる心の者」
 「2 anasava cittassa 無漏の心の者」
 となってますよね?

 ここは次のいずれかのパターンでないとおかしいと思います。

 (パターン1)
 「1 ariya cittassa 聖なる心の」
 「2 anasava cittassa 無漏の心の」

 (パターン2)
 「1 ariya cittassa samangino 聖なる心の者」
 「2 anasava cittassa samangino 無漏の心の者」

 ここは項目の部分ですから、スマナサーラ長老のミスではないと思います。

 編集者の方のうっかりと推察します(ですが、上に一言書きましたが、この程度のことは誰にでも起こりうることなので責めているわけではないわけです。私自身も最初間違えていたわけですし)。 

 新さまの仰る中身と私の述べるところは一致しているように思います。
ヴィーナス
2010/12/30 09:23
 直前のコメント一行目「か」が一文字余計ですので削除してお読み下さい。
 なお、スマナサーラ長老がミスをするわけがないのですが(特にパーリ語で)、スマナサーラ長老は無関係ということを表現したくて上のような文章としました。
ヴィーナス
2010/12/30 09:28
 つまり、「項目」の部分は、まず間違いなく編集者だけの裁量で立てられており、そこにスマナサーラ長老の関与はないと思うということです。
 これはスマナサーラ長老のご著作のどの本でも、「目次立て」「項目立て」などについて多分同じことがいえるのではないかと思います。
 Hさんが編集者の場合はスマナサーラ長老のチェックをお願いしている可能性もあると思いますが。
 Hさんがどなたかは新さまなら分かって頂けると思います。
ヴィーナス
2010/12/30 09:46
ヴィーナスさん。

なるほど、そういう御趣旨でしたか。

パーリ経典の本文中にある言葉をその意味を間違えずに、「項目化」するのは、かなりパーリ語に精通されてないと難しいと思います。

皆、スマナサーラ長老のようなパーリ経典の専門家のわけではありませんから。。

2010/12/30 10:39
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