幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

アクセスカウンタ

zoom RSS ◆◆◆◆◆妄想を止めれば幸福になる

<<   作成日時 : 2011/01/10 08:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 7 / トラックバック 0 / コメント 9

次のポイントは「いい加減、自分の中で作っている世界、
妄想を止めてください」ということです。
その時点で極端に幸福になります。

◆妄想さえ止めるなら、その瞬間から人は幸福になります。

◆幸福とは何かを「得る、獲得する」ことではありません。

◆得たものは消えていくのです。その幸福は安定して
いないのです。

◆幸福とは不幸を司る原因(妄想)を止めることです

◆幸福は、なるものです。

◆我々の不幸は言い換えれば「自作自演」なのです。
画像


そう、人間の不幸は自作自演です。
ゴキブリを嫌いと思うのは、勝手でしょう。
可愛いと思えば楽しいでしょう。
「自分のまわりの人々は性格が悪いのだ」と思うのも、
自分勝手でしょう。

自分がそう思ったのだからといって、世界中がそうは思って
いないでしょう。「ゴキブリを気持ち悪い」と思ったとしても、
ならばゴキブリに訊いてみてください。ゴキブリは自分の命は
超カワイイと思っていますよ。すごく格好いいと思っているのです。

皆さまはゴキブリを観察していないのですけれど、ゴキブリには
アンテナ(触覚)があるでしょう?あれをすごく自慢げに
お洒落して洗っています。

ちゃんとアンテナを先の方からチョコチョコと、きれいにするのです。
微妙に埃でも溜まったら、信号を受けられませんから。
ゴキブリは眼でなく、アンテナで受信する信号で動いています。
だから、皆さまよりも逃げ足も速いのです。隠れたら見つかりは
しないのです。

「ゴキブリを捕らまえよう」と後ろから行っても駄目です。
眼がないのだら後ろからも見えます。裏技を教えますけれど
ゴキブリを捕まえたければ、扇風機を回してください。

空気が動いてアンテナが麻痺しますから。人間が歩いて手を出す
くらいは、わからなくなります。

それはゴキブリにとって大変迷惑なことですけど。
私はゴキブリをかわいいと思ったのだから、言ったのです。

たまたま捕まえてもみます。

だからゴキブリに訊いてみたら、自分はすごくかわいいし、
我々が「嫌い」と思っただけで、我々が苦しんでいます。
全て不幸は自作自演です。

◆妄想を止めてありのままの事実を知ることができるように
なると、それは幸福であり、心の安らぎなのです。
ありのままの事実を知ってしまうと、もう幸福です。
問題ないのです。

◆それを「智慧」と呼ぶ。智慧とは幸福なのです。
俗世間の幸福は幸福ではありません。
お金があることは迷惑です、飛んだ代物です。
不幸になるだけです。
 
知識も肩書きも飛んだ代品で、不幸になるだけです。
幸福というのは「智慧」なのです




心を育てるブックレット
『気付いたらもう「幸福」になっていた!〜現代人のための「ブッダの幸福論」〜(施本)』
2005年10月8日 アルボムッレ・スマナサーラ長老 四谷区民ホール講演会より



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 7
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
昨日の視聴会では、ぱんさんと始めてお会いいたしました。

生きとし生けるものが幸せでありますように
慈悲と知慧
2011/01/10 08:54
おはようございます。

かつての法話会で、私が「ゴキブリが苦手なんですが」と質問したら、スマナサーラ長老は「よく観察してみて下さい」と答えられました。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/10 09:46
この集まりは、感受性の高さ

感受性が高く、何事のも、鋭く、キャッチしてしまう

ゴキブリはアンテナが敏感すぎて、扇風機のかぜは、迷惑

私たちは、感受性の高い者の集まり

何でもキャッチする、高い感受性の持ち主ばかり

しかし、感受性が低いよりありがたい

その高い感受性を生かし、人々の、自己成長に励む心を、キャッチしよう。
才木広之
2011/01/10 19:08
 クリシュナムルティ先生の対談に次のようなものがあります。こちらは捏造、曲解のない悟りの境地のように思います。なお、以下、「先生」はクリシュナムルティ先生のことです。

 質問者 ほかの種類の気づきがあるのですか。気づきに別の次元があるのですか。

 先生 ここでも、気をつけましょう。ある動機からこの質問をしているのではないことを確かめましょう。もし動機があれば、私たちは条件づけられた反応の罠にもどってしまいます。
 観察者が、強いられたのではなく完全に沈黙するとき、そのとき起こる気づきは明らかに異質なものではないでしょうか。

 質問者 観察者のない状態において、どんな行為が可能でしょうか―どんな質問、どんな行為が。先生 ここでもまた、あなたは川のこちら側からこの質問をしているのでしょうか、それともむこう岸からでしょうか。

 もしあなたがむこう岸にいれば、そんな質問はしないでしょう。もしむこう岸にいれば、あなたの行為はそこから生まれるでしょう。

 ですから、あなたはこちらの岸―その構造、性質、そのすべての罠―に気づいているだけであり、その罠から逃れようとすれば、また別の罠にはまってしまうことになります。

 そのすべてがなんと単調なくり返しでしょう!

(続く)
ヴィーナス
2011/01/10 23:05
 気づきは私たちにその罠の性質を明らかにしました。

 それゆえ、すべての罠はなくなります―

 ですから、今、心は空です。

 〈私〉や罠が空になっているのです。

 この心には異質の、異次元の気づきがあります。

 この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません。

 質問者 なんと、これは難解なことでしょう。あなたのおっしゃることは真実のように思われ、真実のように聞こえますが、私にはまだ充分に理解できません。

 別の言い方をしてもらえないでしょうか。

 私を私の罠から脱け出させてもらいないでしょうか。

 先生 あなたの罠からあなたを脱け出させることは誰にもできません。グルもドラッグも、マントラも、私を含めたどんな人も―特にこの私は。

 あなたがしなければならないことは、途中で不注意にならずに、ただ終始気づいていることだけです。…以下、略

(引用終わり。「自己の変容」めるくまーる社 松本恵一訳15頁以下)
ヴィーナス
2011/01/10 23:06
今日は楽しかったです。

僕の帰る場所は、精舎であり、お釈迦様であります

また精舎に戻るときが、楽しみです。
才木広之
2011/01/10 23:38
 2つ前のコメントですが、

 「質問者 観察者のない状態において、どんな行為が可能でしょうか―どんな質問、どんな行為が。

 先生 ここでもまた、あなたは川のこちら側からこの質問をしているのでしょうか、それともむこう岸からでしょうか。」と
 
 「先生」の前で改行をして下さい。

 むこう岸は中部経典22の筏の譬えを想起させます。むこう岸は、悟った方が到達されたところを仰っておられるのではないかと思います。
 
 それから、上記「自己の変容」という本についてはこのように言われています。

 「この本は、マリブに住むアラン・ノーデによる徹底的な質問と、それに対するKの答えで構成されている。

 アランは質疑応答のやりとりを、[速記ではなく]ふつうに書きとめたり、テープレコーダーに向かって口述したり、校正するために、しばしば夕方、Kに読んで聞かせるなどしたものだった。

 そのためこの本は、Kに手を加えられたり、一瞥されることすらなかった他の講話録を超えた価値を持っている。」(引用終わり)

 この言葉は、クリシュナムルティ先生の側近であったメアリー・ルティエンスの言葉です。
 Kは、クリシュナムルティ先生のことです。
 
 この本はメアリー・ルティエンスの編集とされていますが、上の言葉からして、実質的には側近のメアリー・ルティエンスは編集していないものと強く推察されます。ほとんどアラン・ノーデが編集したことの告白ですから。
 また、クリシュナムルティ先生のチェックが入っているということも非常に強く推察されます。
 私にとってはクリシュナムルティ先生の本の中でも、輝いている本です。
ヴィーナス
2011/01/10 23:44
ひとつ前のコメントですが

精舎に帰るときが楽しみです。に修正します

才木広之
2011/01/11 00:04
 上記クリシュナムルティ先生の説かれているところで特に注目して頂きたいのは次の部分です。

「ですから、今、心は空です。
〈私〉や罠が空になっているのです。
 この心には異質の、異次元の気づきがあります。
 この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません。」

 曹洞宗においては、道元禅師が如浄禅師に「身心脱落」と報告されたところで大悟されたことになっているのではないかと思います。
 しかし、スマナサーラ長老の仰るところによれば、如条禅師は、「脱落脱落」と切り返され、まだ完全たる悟りには到達されていないことを説かれたという趣旨であったと思います。

 クリシュナムルティ先生の仰る「この心には異質の、異次元の気づきがあります。この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません。」ということと、如浄禅師の仰る身心「脱落脱落」というのは、同じ悟りの境地を別の表現で意味しているように思っています。

 お釈迦さまがヴェーダナー(感受)のニローダ(滅)が涅槃であると定義されている(「平和の生滅」スマナサーラ長老著97頁)ことと合致していると思います。

 感受が滅しているならば、感受が滅していることを感受することもありえないと思います。
ヴィーナス
2011/01/11 01:09
◆◆◆◆◆妄想を止めれば幸福になる 幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる