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zoom RSS ◆「敵と味方の見分け方【後半】」

<<   作成日時 : 2011/01/13 06:30   >>

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「敵と味方の見分け方【後半】」 〜自分のこころを育てるために〜
このように「こころ」は弱い性質を持っている「働き」ですので、放っておけばどんどん堕落してしまいます。

「こころ」はその場その場ですぐ味わえる快楽をいつも求めていて、
先のことには神経を配りません。これこそが人生における「悩み」「苦しみ」の
原因なのです。

これを仏教では「煩悩」と言っています。「こころ」を育てずに放っておくと
危険なのはそのためです。

 「こころ」のこのような性質を知っている人は、外部の世界に「敵・味方」を
見いだすことはありません。

何が「敵」で何が「味方」かを確実に把握することはこころでは不可能なことです。

ですから自分の周囲の人々がどんな人であろうと、幸福を掴めるかどうかは、
自分自身の「こころ」次第です。

もしも周囲の人間がだらしなくて、自分の「敵」的存在であっても、いわば
反面教師のようにそれを客観的に見て自分の性格を正すこともできます。

逆に周りの人々が良い人であれば、その影響を励みにして自分の人生の
糧にすることもできます。

画像


 外部の世界を「敵・味方」に区別することは無意味なことです。
そのことは生きることを複雑に難しくするだけです。

自分の本当の「敵・味方」は、自分の「こころ」なのです。無知、貪欲、怒り、
嫉妬、敵意、高慢、弱気、怠惰、後悔等によって「こころ」の方向性を決めると、
その「こころ」が自分にとっての最強の「敵」となります。


「自分自身のこころ」という敵からは逃げきることが出来ませんから、そういう
「敵」を内包した人は周囲の世界も生きにくい、住みにくいものにしてしまう
のです。

 物ごとをありのままに、客観的に見ることが出来る知恵、慈しみ、思いやり、
助け合い、精進、努力、明るさ、謙虚等で「こころ」の方向性を定めたら、
その「こころ」自体が自分の最強の「味方」となります。

その「味方」は決して自分を裏切ることはありません。

そのような「味方」を内包した人の世界は、周囲も自分の幸福をもたらす
「味方」に変わっていきます。

ですから、世界を「敵・味方」などに区別するという愚かなことは止めて、内在する
本当の「敵・味方」にはやく気づくことが大切なのです。


パティパダーNo.13 (1996年3月)巻頭言  
「敵と味方の見分け方」より

A・スマナサーラ長老


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コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
今日もひたすら隙間なく正念及び正知時々慈悲の瞑想を実践。

生きとし生けるものが幸せでありますように
慈悲と知慧
2011/01/13 07:14
心は放っておけば墜落していく、いただきました。
ユウタ
2011/01/13 07:36
おはようございます。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/13 09:15
 クリシュナムルティ先生の対話に次のようなものがあります(ご回答がクリシュナムルティ先生です)。

 これを読むと、サティの実践と慈悲の瞑想の関係のようなものが浮かび上がってくるように思います。

(質問) 「概念的に見るということと、実際に眺めるということの相違をお聞かせ下さい。」

(答) あなたが樹木を見る時、概念的に見ますか?実際に見ますか?
 花を見る時、あなたはありのままに眺めますか?それともある知識ー植物学や他の学問のスクリーンに写して見ますか?…中略…
 
 もしそれが概念的に見るのであったら、つまり思想を媒介にして見るのでしたら、本当に見えるでしょうか?
 
 あなたは御自分の妻または夫が見えますか?
 妻や夫についてあなたが持っているイメージ(心像)を見るのですか?
 
 そのイメージこそ、あなたが理屈を言って物を見る場合の概念なのです。

 つくられたイメージが何らない場合、あなたは実際に見ているのであり、本当のかかわりをもってくるのです。
 …中略…

 私たちの心が、今述べたような意味でのイメージをつくらないように出来るでしょうか?
 
 これが出来るのは、ある事が起こったその時、または印象をもつ瞬間に、心が完全に注意深くなっている時に限ります。

 (続く)
ヴィーナス
2011/01/13 10:09
好きな人、、、(中学校時代)

大好きな人がいました、そしたら僕は、みんなに伝えました。

「あの人が僕好きなんだよ」といろんな方伝えました

「好きな方にいつも声をかけました」

好きな人が出来た、自分のことが嬉しかったのです

相手にどうしてほしいというのではなく、「自分に好きな人が出来たんだよ」っと自分自身のことを伝えたかったのです。

「好きという感情は素晴らしいなー】といいたかったのです

では、嫌いな気持ちはどうしましょうか。

「嫌いな感情は、素晴らしいなー」と言えるでしょうか



才木広之
2011/01/13 12:46
では、「好きな感情は素晴らしいなー」と言えるでしょうか

今の僕は、言えません

完璧に、「私のことをわかれよ、お前を好きなんだよ、だから言うことを聞きなさいよ」

といった風にしか感じられません。
才木広之
2011/01/13 12:50
 @好きな感情(「欲」)は素晴らしくない、A嫌いな感情(「怒り」)は素晴らしくないとなっても、B「無知」の感情が強く働いている可能性も高いと思います。

 心の騙し機能でそのことに気づけないでいる場合もあると思います。中年近くになると、案外多いのではないでしょうか?恋愛に無関心になったり色々なパターンがあるように思います。
 それで悟りに近づいていると勘違いしてしまったりするわけです。
 
 才木さんは、2011/01/06 07:14「思うところあり、今からあなたを相手にしないことに決めました。」と言ってますから、私だけが才木さんを一方的に相手に致しました。
ヴィーナス
2011/01/13 14:45
今回の関西月例冥想会にて印象に残る2つの質問がありました。

一つは「苦」の種別
スマナサーラ長老はこの質問に対してあらゆる切り口で3つのカテゴライズを1時間近くを使ってご説明されました。
もう一つは「器の大きい人間になるためには?」
この質問には「自我を捨てることでしょう」と2秒でご回答されました。
その鮮やかさに私は思わずにんまりしてしまいました

相手にあわせた、相手を尊重したCOOLでクリアな受け答えは実践から生まれた智慧のたまものだとあらためて思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように
358
2011/01/13 15:55
 才木さんにコメントしたため中断しましたが、クリシュナムルティ先生の説法の引用を続けます。
 
 簡単な例を引きましょう。

 あなたがお世辞を言われたとする。あなたは好感を持ち、この好感がイメージをつくります。

 しかしあなたがきわめて注意深くこのお世辞に耳を傾けるなら、つまり好き嫌いという考えをさしはさまず、そのまま全体として聴き入るなら、イメージは形成されません。

 相手を親友呼ばわりしない代わりに、今度は侮辱を加えた人の場合も敵呼ばわりしません。

 イメージが出来るということは、心が注意深くなっていないことから生じます。

 したがって心が何事にでも気付くような時には、概念の構築は起こらないのです。

 自ら気をつけてごらんなさい。簡単にわかることです。

 あなたが木・花・雲を眺めることだけに完全に専念しているなら、植物学の知識であれ好悪の感情であれ、それを対象に投射して見ることはない筈です。

 ただ見つめる―このことは、あなたが木と一体になれなどという意味ではありません。
 だいたいからしてあなたが木と同じになれる筈がないではありませんか。

 もしあなたが妻を夫を友人を、何のイメージも持たずにすなおに眺めるなら、その人間関係は全く違ったものになっていくのです。

 その時もはや思慮は介入せず、愛の可能性が生まれるのです。
 (引用終わり。「自由への道」霞ヶ関書房、菊川忠夫訳50頁以下)

 (続く)
ヴィーナス
2011/01/13 16:09
 このクリシュナムルティ先生の仰る「愛」は、キリスト教でいう愛などとは異なり、悟った方の「必要がなければ、心の中に言葉が生まれない聖者の境地」を示していると思います。

 つまり、いわば心が沈黙状態に達された沈黙の聖者(muni)の境地です。
 釈迦「牟尼」仏陀の牟尼(むに)は、このパーリ語(muni)の仏陀の教えにおける訳だと思います。
 この点については、http://www.j-theravada.net/howa/howa156.htmlにスマナサーラ長老の説法をお読みください。

 また、上の「愛」が「無知」でないこともいうまでもありません。スマナサーラ長老は、このように仰っています。
 
 「我々の目指す智慧とは、捏造をせずに、ありのままにデータを見て真理を発見することです。六根が六処に触れたその瞬間に何が起こったのかを正しく把握するのです。」(「人生は美しく清らかに」サンガ147頁)

 ですから、クリシュナムルティ先生の仰ることは、「無知」ではなく「智慧」だと思います。

 なお、スマナサーラ長老は、「虎も、ライオンも、おろかものも可愛いことは可愛いです。皆に慈しみを実践します。でもペットとして飼わないで下さい。」と仰っています。http://www.j-theravada.net/qa/qahp14.html

 また、仏陀の教えにおいては善友の重要性が再三説かれていると思います。

 なので、文脈に応じて正しく理解しないと、誤った理解をしてあさっての方向に飛んで行ってしまうと考えます。
ヴィーナス
2011/01/13 16:18
生きとし生けるものは幸せでありますように

あんさん、

私はあなたこと好きですよ。

人間として好きですよ。

だから私はあなたに「私のことをわかれよ、お前を好きなんだよ、だから言うことを聞きなさいよ」

と言う感情があります

ただあなたのことを尊重するなら、あなたが、「いけないことだ」と言われれば、尊重すべきは、尊重すべきだと思ってます。

怒りの言葉を発さない。とあなたに言われたことに納得がいき

怒りの心を持った時は、発言が出来ないだけで、コメントしない時に、怒りは起きているときがあります。

また困った時はダンマパダでワンギーサ様に、お酒を飲んでのコメントはよくないコメントが多い、とズバリ見抜かれ、結局お酒を飲むときがなくなってしまったから、お酒は、滅多に飲む機会をなくしました。

才木広之
2011/01/13 20:57
生きとし生けるものは幸せでありますように

ヴィーナスさんも、ワンギーサ様も、新さんも、358さんも、慈悲と智慧さまも、大切な大切なお方です。

もう私の心の中に、今でもこうしておられるのですから

ただ相手にしてあげたくても、する訳にはいかないこともあります
才木広之
2011/01/13 21:31
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