幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ★お釈迦様と効率主義

<<   作成日時 : 2011/01/14 06:31   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 7 / トラックバック 0 / コメント 18

こころの清らかな人は、
たとえヒマラヤ山脈の奥地のような遠いところに居ても
(そばにいる人のように)簡単に分かります。

しかし欲に眩んでいる人は、
夜に放たれた矢のごとく、そばに居てもその存在は感じない。
これは今日のダンマパダ304偈の意味なのです。


お釈迦様が住んでいるところに自分も住んでいたからと言って、
説法なさる時はお釈迦様の目の前に座っていたからと言って、
お釈迦様の気を引くことは簡単ではないのです。


お釈迦様は説法を無駄にしたくなかったのです。
人々を感動させることも、喜ばせることも、
お釈迦様の伝道の目的ではありません。


智慧に優れた人だと賛嘆されることも、財産をお布施としていただくことも、
みじんも期待していなかったのです。

画像



お釈迦様の唯一の目的は、真理を聴いてそれを理解して、
一人ひとりが自分のこころの煩悩を無くす修行をして、

解脱を経験することでした。

一切の苦しみを乗り越えて、
完全なる安穏に達してもらうことでした。


説法を聞く人に役立てば、それで充分だったのです。


お釈迦様に、長くインドじゅう旅をなさっているお釈迦様に、
長く付き合うことは誰でもできませんでした。

ほとんどの人々は、お釈迦様と一言でも交わしたいと思っていたのです。
しかしこのチャンスは、簡単に実現できるものではなかったのです。

お釈迦様が誰に話すか、
誰に質問するか、
説法の相槌役に誰を選ぶのかは、

お釈迦様以外、誰にも推測できないのです。


たとえサーリプッタ尊者がそばに座っていても、お釈迦様が
遠くに座っているお百姓さんと対話しながら説法することはあり得るのです。

お釈迦様に声をかけられることは、
大変な意味をもつ出来事なのです。


その人は、みなに羨ましがられる存在なのです。
そればかりではありません。



智慧のある人として、人格者として、心清らかな人として、認められてしまうのです。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
304.
徳ある人はヒマラヤの
雪を戴く峯のごと
遠くありても尚知らる

徳なきものは傍近く
在りても見えずばたまの
夜に放たれし箭の如し

訳 江原通子



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




ダンマパダ第21章  種々なるものの章304
巻頭法話「ブッダに気付かれることほど名誉はない」より抜粋
パティパダー B.E2553 no.180/2010 2月

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コメント(18件)

内 容 ニックネーム/日時
どこにいても自分の心の中にありますか

私の心にありますか

今は、たばこ吸っても大丈夫なんてことありますか。

心の中に、いつもいますか、

結局は自分自身の心成長させ、

いつも釈迦さまが、こころの中にあるようであらなければいけないんだ。

生きとし生けるものは幸せでありますように
才木広之
2011/01/14 07:43
おはようございます。

一読者からの要望ですが、巻頭法話を三つか四つくらいに分けてでもいいから、全文掲載して欲しいとのことです。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/14 08:37
ヴィーナスさま
《これが出来るのは、ある事が起こったその時、または印象をもつ瞬間に、心が完全に注意深くなっている時に限ります。》

たいへん解り易い説明、ありがとうございます。

才木さま
好き、嫌いの感情は誰にでも自然に湧き起こり
ますね。感情という煩悩に支配されることなく
観察する、ヴィーナス様のコメントで教えて頂いた
ように注意深く観察する
きめ細かく観察する訓練をがんばりましょう。
お酒を飲んでる時のコメントはホント解りまするる

新さま
内容にもよるので、確約はできかねますが
善処いたしますね。

生きとし生けるものが幸せでありますように

あん
2011/01/14 10:38
今日もひたすら正念及び正知時々慈悲の瞑想。

生きとし生けるものが幸せでありますように
慈悲と知慧
2011/01/14 11:18
ヴィーナスさんコメントありがとうございました。

またヴィパッサナーの観点からのコメントしていただけたらと思います。
慈悲と知慧
2011/01/14 12:02
生きとし生けるものは、幸せでありますように

あんさんのブログで、お酒を飲んでいたり、飲んでからのコントはいたしたことは、したことがありません。

が、たばこを吸いながらのコメントは、あります。
才木広之
2011/01/14 12:33
あんさんも思うところあり、相手にしないことにしました


才木広之
2011/01/14 12:47
あんさま、皆様

主観ですが、才木さんについては、かまってあげないことが、寧ろ彼にとってためになることではないかと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/01/14 13:24
彼のためになるというのはその方が彼のこころの成長を促すことになるのではないかということです。
慈悲と知慧
2011/01/14 13:36
才木さま
推測で言ってはだめですね。
反省します、ごめんなさい。

慈悲と智慧さま
フォローありがとうございます。
あん
2011/01/14 14:55
私のほうこそ、憶測で、ヴィーナス様と言うあなたが

恩返し、おんがえし、ご紹介と言うあなたと同一人物だと確定だと、憶測しました。ごめんなさい。
才木広之
2011/01/14 18:54
私は回りくどい書き方をしてますが。

ニックネームの方で、あったことがない人には、ニックネームで語りかけると、何かそこに人を感じられなく、感じてるので、あえて、「ニックネームを使っている、あなた」とそこに人を感じるようにしたいために、私は少し回りくどい書き方をするときがあるようです
才木広之
2011/01/14 19:07
当然、人の名前と感じられるニックネームの場合は、そこに人を感じるので、そのままで話しかけることもあるのですが。私は、せめて名前っぽい、ニックネームがいいなー、と感じています
才木広之
2011/01/14 19:11
たとえば、私が、

ダルマ、というニックネームで、仮に投稿したら

それはもう二重人格なんです

だから本名にしてます

現に私がチューラパンタカで投稿した際は

二重人格になりました

それを恐れて、いただいた名前ではあるのですけど、止めました

正式に出家し、皆が知っている、チューラパンタカなら二重人格にはなりませんけどね。

生きとし生けるものは幸せでありますように
才木広之
2011/01/14 19:16
いわゆる「化身」の話ですね。

 私は、スマナサーラ長老、スダンマ長老といった御方は「化身」もお作りになることができると推測しています。

 なお、J・クリシュナムルティ先生(ジッドゥ・クリシュナムルティ先生)とUGクリシュナムルティは全く別人です。
 スマナサーラ長老が説法でしばしば紹介され、私がお言葉を引用しておりますのは、J・クリシュナムルティ先生です。
 UGの方は「偽」覚者と思います。

 慈悲と智慧様の仰ることにも一理あると思いましたが、ブラフマダンダみたいで、そこまでするのは少し強すぎかなと思い、才木さんを一方的に相手にすることにしました。
ヴィーナス
2011/01/14 21:38
 「化身」については、こちらのスマナサーラ長老御監修のジャータカ物語をお読み頂ければと思います。
http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0404.html
http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0405.html

 また、パティパダー仏暦2551年(西暦2008年)3月号の沙門果経34頁以下のスマナサーラ長老の説法もお読み頂ければと思います。
ヴィーナス
2011/01/14 22:40
 続きです。

 スマナサーラ長老、スダンマ長老が「化身」をお作りになることができると推察する目に見える根拠を出すということはなかなか難しいものがあります。
 一つだけ、文献上、推察できる根拠となりうるものを挙げます。

 お釈迦様は、沙門果経において、「あのように大神通力があり、あのように大威力がある、あの月と太陽にも手で触れたり撫でたりします。」と仰っています(片山一良氏訳)。

 この点に関する説法のところで、スマナサーラ長老はこのように仰っています。

 (引用開始)

 ですから、太陽を触っているような幻像を作ったとすれば、疑いは晴れますが、まだ問題があります。経典では、「自分の手で触る」と記しているのです。
 それなら幻像では無理です。

 しかしこのやり方ならできます。

 禅定に入って、神通で自分の身体のコピーを作るのです。

 それはこころが作ったものだから、物質的なもの、実体のあるものではありません。

 その身体に太陽を触らせるなら、焼かれてしまうことはあり得ない。
 その身体なら、太陽に結跏趺坐して座っていることもできます。
 しかし、地上にいる我々一般人に見えるようにするためには、かなり大型のコピーを作らなくてはいけない。
 これは神通で行うことだから、計算する必要はありません。
 肉眼で見えるような身体を作りますと、決めるだけです。
 その力は四神足の中で意欲神足と言うのです。

 (引用終わり。パティパダー仏暦2552年西暦2008年6月号「沙門果経」35頁以下)

 (続く)
ヴィーナス
2011/01/15 06:47
 それで、このようなことを何の瞑想体験もなしに語ることができるでしょうか?
 
 確かに、スマナサーラ長老は、同月号34頁で、「そのほかの経典と注釈書にある説明の中から、現代の我々に理解できるように説明してみます。」と仰っています。

 しかし、同年5月号において、スマナサーラ長老は、

 「科学者も新しいものを発見したら、それをワイドショーで発表するのではなく、学術論文として発表するでしょう。
 それが品格に相応しい行為というものです。
 お釈迦様も、神通はそれなりの能力ある同志の間で使ってもよいが、一般人に見せるものではないとしたのです。」
 と仰っています。

 そして、スマナサーラ長老はこのように仰っています。

 私が文章を書く場合、「○○です」と「○○と思います」は微妙に区別します。
 「○○でしょう」と使う場合もあります。
 いくらす早く読み合わせをしても、動詞には気をつけるんです。
 (引用終わり)http://gotami.j-theravada.net/2008/12/

 スマナサーラ長老は、私が一つ前のコメントで引用した文章で、
 「その身体なら、太陽に結跏趺坐して座っていることもできます。」
 と断定形でおっしゃっておられます。
 
 「…と思う」という個人的考えを述べる文章でもなく、「…でしょう」という推測を述べる文章でもありません。
 
 「太陽に結跏趺坐して座っていることもできます。」という記述は経典や注釈書にもまず記載はないと思います。
 
 あまりにも具体的で迫真に富んだ記述であり、スマナサーラ長老が断定形で説法されていることからしても、「その瞑想体験がお有りであり、化身をお作りになることができる。」と推察するのが合理的であると思います。
ヴィーナス
2011/01/15 10:13
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