幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ◆「死にたい」「生きたい」

<<   作成日時 : 2011/01/15 06:40   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 0 / コメント 15


スマナサーラ:お釈迦さまは「渇愛」という単語を使ってましてね。
「渇愛」というのは、生かされている衝動ですね。三種類あります。
ひとつは五感から刺激を受けること。

食べたり、映画を観たり、結婚して家族をつくったりして楽しむ世界。
で、そのために生きてみるということ。
二番目は生存欲です。とにかく生きていたい、死にたくないというね。
三番目は破壊欲なんです。殺してしまいたい、という。

画像


香山:それは自分に対しても?自分をも破壊したいという気持ちに
なるんですか?

スマナサーラ:自分、他人ということじゃなくて衝動なんです。

香山:じゃあ、どちらにいくかは わからないんですね。

スマナサーラ:そう、わからない。そして「とんでもないこの
三つの衝動で生きているのだから、人生はろくなもんじゃない」と
いうのが、仏教の立場なんです。
「渇愛はやめるべきである。執着やら、しがみつくことやら、
 やめないとかなりヤバい」と説くのです。

香山:なるほど。その渇愛という三つの衝動で生きているから、
生きているなかに「自殺」っていうのも含まれてしまう、という
ことですか。

スマナサーラ:そう、破壊欲が自分に向かったら自殺ですからね。
おもしろいのは、それも、生きていたいから出す結論なんです。
生きていたいという衝動の一方向が自殺にもなるというね、すごい
矛盾なんですね。



【生きている実感】

スマナサーラ:われわれ人間が普通にやっている「金を儲けて楽しく
生活しよう!」というのも、五感を刺激して生きていたいという
生き方でしょう?

香山:ええ、そうですね。

スマナサーラ:五感の刺激を楽しんで生きると、人は「ああ、生きて
いる!」と実感するんです。
山に登ったり旅行したり、レストランのご飯を食べたりして「楽しい」
「おいしい」といって、時間をどんどん過ごしていきます。
とにかく「明るく楽しく生きよう」とか思いながら生きる。
渇愛とは、そういう「日々をどう過ごそうか」ということにプッシュする
エネルギーなんです。それが三種類。

香山:なるほど。その三種類のうち、三番目の破壊欲だけをおさめるとか、
なくすことはできないんですか?

スマナサーラ:うん。ひとつだけはできない。渇愛というひとつの言葉で
三面です。三面のプリズムみたいなものなんですね。
渾然一体(こんぜんいったい)で、同じものの三つある側面がかわるがわる
現れる。立体の三角錐みたいなものをイメージしてもらえばいいかも
しれません。

香山:じゃあ、解決するにはやっぱりそれ自体を・・・・・・。

スマナサーラ:取り除かなくてはいけない。でも人間は、渇愛を取り除く
ことにすごく抵抗を感じるようにできているんです。
その方法を教えている仏教を嫌になったり、わからなくなったりもする。
なぜなら、存在欲などに対して「それがなくなったらまずいんじゃないか?」
と思ってしまうからなんですね。

香山:うーん。確かにそうですよね。

スマナサーラ:本気で取り除こうとするなら、まずはそこらへんを理解
しなくちゃいけないんです。実際は三つでワンセットだということなどをね。


「生きる勉強」
アルボムッレ・スマナサーラ/香山リカ 対談 P.11〜14より


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コメント(15件)

内 容 ニックネーム/日時
東京へ向かう新幹線の中です。心を鎮めるために、新年法要に続きもう一度、直に長老のお話を聞きに行ってきます。

生きとし生けるものが幸せでありますように
かずみ
2011/01/15 08:14
かずみさんや今日参加される皆様に三宝のご加護がありますように。

正念及び正知時々慈悲の瞑想。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/01/15 08:56
全国的に寒いですね
風邪やインフルエンザにお互い注意しましょうね

今日も有意義な一日を過ごしたいものです

生きとし生けるものが幸せでありますように
358
2011/01/15 09:08
おはようございます。

日々善行為に励みたいですね。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/15 09:22
今月は、四聖諦を頭で理解しようと思っています。今日、長老が香山さんに渇愛について説明されています。渇愛は取り除かなくてはならないと。苦、集、滅、道の四つの真理のうち、集と滅の説明をしていると思いました。香山さんとの対談本は持っていなかったので、勉強になりました。
ぱん
2011/01/15 11:58
今夕から、雪だそうです

出かけても、落ち着かないので家にいようと思ってます


整理整頓、片づけ、などしてみようと思ってます
才木広之
2011/01/15 12:39
みなさんこんばんは、

自分が生きていたいから、自殺ということになるのではないかと、考えてみたのですが。

自分が、というものがなくなれば、自殺ということにはならないことで理解したら、どうなんでしょうか。

自殺、(自)分で(殺)す、その自分というものが無くなれば安全と考えてみました。

また被害者にあっても、

他殺、(他人)に(殺)された、その他人というものがなくなれば、安全と考えてみました
才木広之
2011/01/15 19:52
さて、さて
台所のゴミを捨てて
すっきりと寝ま〜す!

生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/01/15 21:46
とても細かく丁寧な瞑想指導でした。グリーンヒルで教わった方法とはちょっと違うので、戸惑う部分もありましまが、、、同じヴィパッサナーでも流派?みたいなのがあるんでしょうか?
慈悲の瞑想も、一つ一つ意味を説明して頂いて、本当によくわかりました。最後に長老が客席のみんなを祝福しますとおっしゃってお経を唱えて下さった時には、私、有り難くて泣きそうになってしまいました。長老が発しておられる、なんというか、慈悲のオーラというか波動というか、、、すごいですね。

生きとし生けるものが幸せでありますように
かずみ
2011/01/15 21:54
私も二部からですが参加いたしました。

グリーンヒルの指導は受けたことはないので、私自身比べようがないですが、スマナサーラ長老の方式をおすすめします。
慈悲と知慧
2011/01/15 22:21
 スマナサーラ長老は、こう仰っています。

 ヴィパッサナー冥想の実践についてのより具体的なやり方は、冥想会に足を運んで習われるのがいいと思います。

 釈尊は「善友がいること、善友と共にいること、善友とつきあうことは、仏道のすべてである」とおっしゃいました。

 釈尊ご自身も雲の上の存在ではなく「善友」だという立場をとられ、このようにおっしゃったのです。

 そのお話にもあるように、テーラワーダ仏教の国々で二千五百年以上ものあいだ連綿と仏教が生きてきたことのすばらしさは、師から弟子へと仏道が直に伝えられてきたすばらしさを抜きにしては語れません。

 実践は人から人へと伝えられるものです。

 悟りへの道を正しく習うためには善き師に教わることが何よりも大事だということは、修行の大切なポイントだと思います。

 (引用終わり。http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html)。

 ここで注目して頂きたいのは、「実践は人から人へと伝えられるものです。」という部分です。

 お釈迦さまから、スマナサーラ長老まで、実践は人から人へ伝えられてきたのだと思います。
 ですから、スマナサーラ長老が御指導されるのは、お釈迦さまのヴィパッサナーだと思います。

 結局、お釈迦さまが仰られたことが現代まで人から人に伝わっているのならば、それは本物のヴィパッサナーでしょうし、どこかで変えているならば、それは偽物だと思います。

 流派があるのではなく、本物のお釈迦さまのヴィパッサナーと、偽物のヴィパッサナー(ということはヴィパッサナーではありません)があるだけだと思います。
ヴィーナス
2011/01/15 23:39
 続きです。仏教においては、対機説法ということが言われます。

 しかし、スマナサーラ長老は、下記URLにおいて、基本的に、仏教の実践方法には対機性がないというようなことを仰っておられます。http://www.j-theravada.net/kogi/kogi146.html

 したがって、実践方法の対機性は、(基本的には、ないのですから)、ヴィパッサナーに流派を肯定する根拠にはならないと思います。
ヴィーナス
2011/01/16 00:57
スマナサーラ長老の瞑想会とグリーンヒルを掛け持ちでやられてる方、それから法話や仏教教義についてはスマナサーラ長老、瞑想指導はグリーンヒル、という方も結構いらっしゃっいますね。

2011/01/16 05:53
 ブッダの教えは自由な教えですから、比較することも検討することも批判することも自由です。
 比較・検討・批判して、どれが正しいかを実証する『立証方法』が、ブッダの教えの場合、究極的にはヴィパッサナーだと思います。
 
 そのヴィパッサナーが偽物だったら、どなたが正しいことを言っておられるのか、何が真理か分らなくなると思います。

 例えば、今、贈与契約なのか、消費貸借契約なのかで契約当事者が争っているとします。
 偽造した契約書によっては、どちらの契約が締結されたのか判断することはできません。
 偽造されていない本物の契約書によって、どちらの契約が締結されたのか正しく認定することができます。

 以上は譬えですが、どなたが仰っていることが正しいか、つまり、真理であるかということは本物のヴィパッサナーで自ら立証することができる(確かめることができる)と思います。
 
 しかし、どれが本物のヴィパッサナーかということを立証するというのはとても難しいことだと思います。

 自由な教えの下で、この問題をどうしたらよいのか?答えは一つしかないと思うのですが…。つまり、「自粛」です(特定の人物を批判していると思われないように、婉曲的な表現にしてみました)。
ヴィーナス
2011/01/16 11:25
その瞑想方法で、その瞑想指導者の方自らが、ちゃんとした結果を出しているか?ということも目安になるかと思います。


2011/01/16 12:01
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