幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

アクセスカウンタ

zoom RSS ★★なぜ鉄は錆びるのか【後編】

<<   作成日時 : 2011/01/22 05:02   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 0 / コメント 18

「学問には復習しないことが毒である」。
この偈に出てくる学問とはマントラ、つまりヴェーダ経典のことです。
バラモン階級の学問を指しています。
バラモンたちは三十歳になるまで、学校でマントラを勉強します。

画像


学校で習った内容を覚えるには復習が絶対条件です。

学問をする。

勉強をする。

知識を得る。

いすれの行為も記憶をつかさどる脳のある部分の働きなのです。

脳は論理的にできているので、理解能力があればあるほど知識を
覚えやすい。


それには個人差がありますが、とにかく復習をしてデータをきちんと
覚えて脳にたたき込んでおけば、いつでも取り出して使えます。



まずデータがあれば、それを基にいろんなことが理解できます。
復習するということは、まさに学問の塊なのです。



「在家にとって不精は毒である」。


これは在家の生活を送る上で大切なことが示されています。
「在家の人は自発的にやるべき仕事をこなさなければ大変なことになる」
と言っているわけです。

みんなが腰を上げないで怠けていると、在家の家はつぶれますよ。
雨が降る前に田んぼを耕しておきなさい。
雨が降ったらすぐに種をまきなさい。
そうしないと、在家の生活は成り立ちませんよ、という具合にてきぱきと
仕事をすることの大切さを教えているのです。



次の言葉はとても現代的なものです。

「美しさに怠けは毒である」。


今でもそうでしょう。美しくありたければ、きちんと運動して
プロポーションを保っておかないといけない。

医学的にもブッダが言われていることは正しいのです。

人がごはんを食べてごろごろしてばかりいると、体は醜く
崩れてしまうのです。

だから、怠けずにきちんと体を動かしていれは、私たちは美しくて
健康でいられます。

最後にブッダは
「こころを守る人に放逸は毒である」

と言われます。

学問には復習しないと毒でした。

在家の生活では自発的に必要な仕事をしないことが毒であり、
健康で美しい体を守るためには怠けることが毒でした。


ではこころを守るためには何が毒なのかというと、ブッダは

放逸だと説かれています。



自分のこころに煩悩(ぼんのう)が入らないようにするには、
一瞬一瞬の自分を観察しなければなりません。


それが不放逸という言葉の意味です。

物事を見たり、聞いたり、話したりすることで、絶えずこころが
汚れているからです。

こころが汚れないようにするためには不放逸―――――

気づき(サティ)を絶やさないことが大切だということを
忘れないでください。



原訳「法句経(ダンマパダ)」 一日一悟 A・スマナサーラ 著 P.65〜67

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 5
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

コメント(18件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。今日もなんとか頑張りましょう
才木広之
2011/01/22 07:02
 「脳」が「有る」という立場は、明白な実体論です。ですから、一切の現象は無常、無我、苦であるという仏陀の教えと合致しないと思います。

 ですから、「脳科学」では、預流果にも悟ることはできないと思います。

 もし「脳科学」で悟ったと言う人がいるならば、それはハーバード大の教授であろうが、東大教授であろうが、真理のレベルでは、偽者だと思います。
ヴィーナス
2011/01/22 07:35
おはようございます。

在家にとって無精は毒である。

「不放逸」がメインですが、在家者について、ズバリ核心をついた仏陀の教えに、仏教の普遍性を感じます。

言葉に全く無駄がない。仏陀にしかできない芸当だと思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/22 09:12
不精でした。

2011/01/22 09:15
ヴィーナスさん

お釈迦様の教えも、日本語にしてもらったおかげで、わかりやすくなりました。科学は現代語です。八正道、仏法僧に対する確信を、一歩前進させるために、科学という現代語に、翻訳したほうが、わかりやすいと私は考えます。

よくオリンピック選手が、ドーピングしてでもよいタイムを出そうとする気持ちが、今まであまりピンと来なかったのですが、今は少しわかります。

最善ではなく、次善だったとしても、とにかく試してみよう、学ぶべき点があるならば、取り入れてみようと、私は思います。
ぱん
2011/01/22 11:01
 仏陀の教えを脳科学のはるかに上に置く、仏陀をハーバード大学の脳科学の教授やら、東大の脳科学の教授やらよりも圧倒的に上に置く、ということならば差し支えないと思います。

 スマナサーラ長老が、「比較検討するのは自由だけど、戻ってこないと」と仰られた記憶があります。

 これはもう有名な話ですし、ぱんさまにも役に立つと思うので書きますが、ぱんさまも御存じの方が、スマナサーラ長老にジョン・カバット・ジンというマサチューセッツ大学かどこかの脳科学の先生の本を持って行って「仏陀の教えに似ている」という趣旨のことを仰ったそうです。

 これに対し、スマナサーラ長老は、このように仰られました(「ご紹介」のブログより引用します)。

 「無知のせいで、ブッダを侮辱して、『あ、なんか、あの先生、あの科学者、あの人が、言っていることがなんか仏教にも似ているんじゃないかとか、凄いや』とかいうと、ブッダを侮辱することになるんですからね。

 好き勝手に侮辱するんですけど、私はそういう人は捨てますよ。

 間違い観えても教えてあげない。」

(引用終わり。ダンマパダ46の経典解説、協会発行のDVD「悪魔の花矢の正体」36:42〜) 

 これは、その方がスマナサーラ長老を師と仰いでいるからこそ、慈悲の気持ちから仰られたお言葉だと思います。

 ある学者や、悟っていないお坊様の仰ることと、仏陀や、悟られたお坊様(賢者)の仰っていることが、同じであるとか、似ていると発言すると言うことは、仏陀、賢者をその程度の低いレベルであると侮辱していることになると思います。

 なお、今、ご紹介のブログで、「実体論」について記事が書かれています。
ヴィーナス
2011/01/22 11:35
私の悩み苦しみが無くなりますように。

私の親しい人々の悩み苦しみが無くなりますように。

私が嫌いな人々の悩み苦しみが無くなりますように。

私のことを嫌っている人々の悩み苦しみが無くなりますように。

生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように。
慈悲と智慧
2011/01/22 19:04
今週の火曜日に法話会がゴータミーでありました。

「瞑想について」「二因と三因について」「殺生戒について」「あるとないについて」等々の質問がありました。

スマナサーラ長老は、「あるとない」については、「知識は全て常住論に基づいている」。「殺生戒について」に対しては「生きるという矛盾は輪廻からの脱出」。という趣旨の回答をされた記憶があります。

殺生については、「自分は殺生しない」ということが大切で、菜食主義に陥ってはならない。という趣旨のお話などもされておられた記憶があります。

二因と三因については、かなり長くなるので割愛させて頂きます。

2011/01/22 19:47
 預流果以上に悟っている人が説くのでない限り、知識は常住論あるいは実体論に基づくことになると思います。
 どうしても有身見の煩悩が割り込みますので。
 
 もちろん、パーフェクトに仏陀の教えを説くことができるのは阿羅漢聖者と思います。

 二因三因については、スマナサーラ長老の説法を生で拝聴して理解が進みました。
 生まれた時に、心に不貪・不瞋の2つが入っている場合が二因、心に不貪・不瞋・不痴の3つが入っている場合が三因と理解しました。
 
 このあたりは、naagitaさんのTwitter中継では、少し分かりにくくなっており、次の日のTwilogでもうまくフォローされていないように感じましたので、コメントさせて頂きました。
 http://twilog.org/naagita/date-110118(当日のTwitter中継含むtwilog)
 http://twilog.org/naagita/date-110119(次の日のtwilog 「仏教的なものさしでは三因者は素質がある。二因者は月次の凡人。」とnaagitaさんは説明されています。)
 
 その他は、書くと特定の人物を批判していると誤解されそうなので止めます。

 二因と三因については、次のような文献があります。

 @パティパダー仏暦2553/西暦2010 4月号24頁以下の二因と三因についてのQ&A(御回答はスマナサーラ長老)、
 
 Aブッダの実践心理学2(サンガ)166ページ以下のスマナサーラ長老の説法

 ※ スマナサーラ長老は特定の人物を批判されておられません。
ヴィーナス
2011/01/22 20:13
今日は何とかがんばりました

今カップリングパーティーから帰ったところです

楽しい時間をすごせました。みな同じで、人との交流を求めて、来られた方ばかりに思えました。

案外と男同士の仲間ができます。

参加させていただいて、有意義な時間でした

誰にも指名を受けなくて、ほっとしてます。

こんな幹事の私の自己紹介ですが、どなたか、私と同じような方もおられれば、意気投合するような気もしております

明日は、マーヤーデーヴィー精舎に出向こうとと思ってます。

いろんな方との出会いがあることが、生きているうえでの最大の魅力だと感じています

この世には、会おうと思っても、会えないほどの人がいます。多くのお方にあってみたいという私の思いは、いつまでも、永遠に、途絶えることなく、持ち続けることができる、ことです。

それぞれに、それぞれの違いがいつもあるのが、人間でもあります

生きているうえでの醍醐味は、人と接することだと思います

それぞれに、それぞれ違う生命、楽しさはつきません。

長文をお読みくださり、ありがとうございました。

一人ホテルにて、才木広之より
才木広之
2011/01/22 22:04
 新さまの仰るスマナサーラ長老の説法は1月18日の質疑応答です。
 
 1月20日の朝日カルチャー講義においては、頭が象で、身体がネズミ(カピバラのような)のようなありえない空想の動物について話されておられました。
 バランス悪くてありえないと思います。

 「象+ネズミ」ですね。

 1月18日の質疑応答ばかりでなく、この朝日カルチャー講義においても、「ある、ない」について触れられていて、長老作成の講義資料において「会る」(「会っている」だったかも)と書かれていたのを、有るの意味に訂正する場面がありました。

 これも、わざと間違えられたと思います。
ヴィーナス
2011/01/23 07:14
 それと、1月20日の朝日カルチャー講義においては、有学(sekho)、無学(asekho)についての説法もされました。

 そして、「無学」というのは、学問がないという意味ではなく、「真理を学んで実践を完了している」という意味です。

 その「無学」の概念と区別するためだと思いますが、スマナサーラ長老は「非学」という概念を示されました(文脈上、長老の造語だと思います)。

 無我、非我を想起させますが、中身は当然違います。

 「非学」は俗世間の学識あるが、真理(法)を学んでいないという意味です。

 「有学」は、真理を学んでいる(学ぶことが完了していない、学中、まだこころで体験、経験していない)という意味で、説法されていました。

 この説法によると、預流果に悟っていない人も有学になるように思えます。
 
 しかし、これまでスマナサーラ長老は、「有学」は、阿羅漢聖者以外の預流果以上に悟りを開いた人に用いているように思います。

 例えば、http://www.j-theravada.net/howa/howa158.html には、「第一段階の覚りから、第三段階の覚りまでの修行者たちには、まだ学ぶものが残っている。だから、『有学』と言うのです。」という説法があります。
 インドゥリヤバーワナー・スッタ(中部経典152「感覚修習経」)の経典解説においても、「有学」は、阿羅漢聖者以外の預流果以上に悟りを開いた人の意味で用いておられたと思います。
ヴィーナス
2011/01/23 07:48
 余談ですが、1月20日の朝日カルチャーにおいては、講義の途中で、スマナサーラ長老が、「水道水を飲むとお腹の調子が悪くなる」というようなことを仰られ、今でも痛みが御有りなのだなと思いました。

 その言葉を受けて、naagitaさんがミネラルウォーターを入手しに教室外に出るという場面がありました。

 が、スマナサーラ長老が、期待されているのは、ミネラルウォーターではないのではないか、と思いました。
ヴィーナス
2011/01/23 09:35
 慈悲と智慧さんのブログにコメントしました。震災直後にスマナサーラ長老が仰っておられたもう一つのお話をコメントしました。

 なお、慈悲と智慧さんのブログで述べた水道水の話は、上のミネラルウォーターの話と関連させて読んでいただければと思います。http://ameblo.jp/jihitotie/entry-10927386164.html

 なお、日頃は、スマナサーラ長老は、水道水をろ過して飲まれていると伺っています。
ぶんぶん
2011/06/20 18:21
 スマナサーラ長老が水道水をろ過されているのは、震災前からだと思います。
 放射性物質を除去するような特別な浄水器を用いてはおられないと思います。

 スマナサーラ長老のお命・お身体を心配する必要があると思います。
 一日一回コメントの規則はこれよりも大切なことですか?
ぶんぶん
2011/06/21 07:49
私も長老を心配する気持ちは、
ぶんぶん様と同じです。

私たちとは計り知れない能力を
持っておられる長老の身体を心配するのは
長老から見れは、妄想だとおっしゃられる
のではないでしょうか。

コメント制限は大したことでは
ないです。
それよりも「怒り」が敵です。

放射性物質を除去するような特別な浄水器

それは「心」じゃあないでしょうか。
それなら巨大なものを
長老は持っておられると思います。
あん
2011/06/21 09:43
 付け足し。

 つまり、過失というのは、裏(うら)メッセージとしては、お釈迦様のアーナンダ尊者に対する絶大な信頼を意味していると思います。
 
 アーナンダ尊者だけには最終的には寿命力延長の懇願に応じるつもりがあるから過失が問題になるのであって、懇願に応じるつもりがない人にはそもそも過失すら問題にならないからです。

 なお、この時、アーナンダ尊者がお釈迦様に寿命力の延長を三回懇願されたならば、お釈迦様が二度まで拒絶したとしても三度目には同意したはずというふうに大般涅槃経ではなっています。
 
 つまり、いわば「三顧の礼」です(三国志と同レベルで語っているわけではありません。レベルとしては仏陀の教えが遥かに上です。)。

(遠方からの申し入れは協会の中心的人物ではありません。九州方面と聞いています。九州ではスマナサーラ長老は応じられないと思います。
 応じる可能性があるとするならば、スマナサーラ長老だけを指導者として迎え入れているマーヤーデーヴィー精舎だと思います。それはchoさま、笛岡住職さま、あんさまのようにスマナサーラ長老を賢者として尊敬している方々が数多くおられると思うからです。)
ぶんぶん
2011/06/21 10:41
すべて了解いたしました。
以心伝心でございます。
決まりを作っているので削除させて
頂きますね。
あん
2011/06/21 16:20
★★なぜ鉄は錆びるのか【後編】 幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる