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zoom RSS ★伺(ヴィチャーラ)は天才的思考

<<   作成日時 : 2011/01/30 22:19   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 17

<雑心所(6種類)すべての心に生じるとは限らない心の元素>
「尋」と「伺」について、少々おもしろい話があります。
心の中で「尋」と「伺」がはたらいているということは、単純にいえば
考えていることです。


なぜ考えるのかというと、ものごとを明確に理解するためです。

我々は一日中、なんの役にも立たない無駄な思考をしているかもしれませんが、
基本的に思考というものは、ものごとを明確に理解するために
欠かせない心理的な機能です。


思考の基本的なはたらきは、「尋」と「伺」がつかさどっています。


我々はなにかを考えるとき、どうするのかというと、
さまざまな概念や言葉を頭の中で暴走させています。
画像


「考えている」ということは、結局は「頭の中でしゃべっている」ことです。

言語でしゃべって結論に至るためには、時間がかかります。

言語と思考は同じ仕事ではありません。
二つのはたらきです。


言語とは、思ったことを他人に伝えるために使う信号郡です。
ふつうは、音の信号です。



思考とは、概念の自分なりの論理的な並び替えです。


「言葉で考える」とは、仕事を二つ同時にやることです。
言語は音なのでしゃべるときは時間がかかります。

頭の中でしゃべっていても時間がかかります。
しかし、思考は瞬時に起こるものです。

なにも考えず(頭の中でしゃべらないということ)
ものごとを観察して認識するなら、
瞬時に大量のデータを処理したり、
考えたり、結論を出したりすることができます。


その後で、決めたことを他人にどのように発表するのかと、
言語を駆使したほうがよいのです。


言い換えれば、まず言葉抜きにして考える。
それから結論をどのように発表するのかと、言語に入れ替えてみる。
このようにできるなら、誰にでも天才的な能力が発揮できます。


天才という人々は一般人の立場からみると、なにもものごとを
真剣に考えないでふざけているように見受けられます。
しかし、そうではありません。
その人々は瞬時に考えて終わっているのです。

このことは、音楽のたとえで理解できます。
優秀な音楽家の頭に、まず瞬時に曲が現れます。

それから楽譜に入れてみるのです。
そして、それから演奏するのです。

一番目のステップはとても早い。楽譜に入れる2番目のステップは1番目よりは遅い。
演奏になってくると、なおさら遅いです。
言語で考えることは、音楽を楽譜にするようなものです。

曲ができていない人にとっては、とても遅いです。

他人にしゃべることは、楽譜を演奏することに似ています。

私が言いたいことは、思考能力を高めたければ、

より正しくものごとを考えて瞬時に判断できるようにしたければ、
頭の中で、言葉でものごとを考えるのを、ぎりぎりまで控えるのが
ポイントだということです。



日常生活で、言葉を使わず正しく考えて正しい結論に達することは、
たくさんあります。

階段を下りるとき、転びそうになります。
瞬時に手すりか壁をつかみます。
落ちないようにします。そのときになにかを考えるでしょうか?

なにも考えていないでしょう。
運動のために走っているとき、さまざまな障害物をみごとに避けて走るでしょう。
しかし、「自転車だ。左によりましょう。木だ。右にまわりましょう」などと、
誰も言葉で考えません。

それでも判断は瞬時に起こります。
またその判断には、なんの間違いもありません。


この能力を、勉強するときも、仕事をするときも使えるように
育てあげてはいかがでしょうか。
天才になることに失敗したとしても、抜群の能力の持ち主になります。


仏教心理学では、

このはたらきは「尋」と「伺」という心所二つの仕業ということになります。


「心の中はどうなっているの?」P65〜P68より
A・スマナサーラ長老著書より


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コメント(17件)

内 容 ニックネーム/日時
マナーを守って使いたいですね。
 
これ以上、自己主張の激しい感情的な書き込みが増えるのなら、こころが汚れるだけなので、毎日続けてきたコメントもやめようと思います。

これ以上、感情でこのブログを汚さないで欲しい。この貴重なブログを汚さないで欲しい。切に願います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/01/30 22:37
おはようございます。

確かにヴィパサナーで集中力がある段階まで高まると、かなり能力が高まることがありますね。

昨日、難解本の話が出ましたが、本屋さんで立ち読みして、我を忘れてしまう場合が通常です。その場合だと、1ページあたり10秒から20秒と結構時間がかかります。普段はそうです。

しかし、ヴィパサナーで集中力がついた後に読むと、1ページに1秒くらいで楽に読めます。というか読まないで内容が完璧に解る感じです。天才にはなれてませんが、心の認識能力には凄いものを感じます。

集中力を高めるのはとても大切な要素だと思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/31 04:44
(続き17)

 (旧)司法試験に択一試験(5択のマークシート問題)というのがあったのですが、その択一試験で何年も合格できず、これを通ったら、その後の論文、口述試験はあっさり1回で突破したという話をよく見聞きした記憶があります。

 多分、こういう方々は、司法試験に受かるような才能・実力はあるのですが、どちらかというと、尋・伺でいうと、尋(言葉による思考)を用いる方々なのだと思います。

 択一試験は瞬発力、直観力が大切なところがありますから。

 今大学入試で、択一試験のようなマークシート問題が苦手だという人は、直観力というものにも眼を向けた方がいいのではないかと思います。
 言葉による思考に拘りすぎると時間がなくなったりして失敗することが出てくるように思います。
 
ヴィーナス
2011/01/31 07:04
「ブッダの実践心理学」を読むにあたり
ここでご紹介いたしました「心の中はどうなってるの?」はとても解かりやすく理解が深まると
思います。

私は天才とはほど遠い人間ですが、
この「伺」の箇所はすごく納得できます。
直感的に感じて判断する事がよくあります。
それがまた
自分の中で的を得ていると思っていて
実際その通りだと言うことが良くあります。
そういう瞬時に判断することが
良い事なのか、悪い事なのかが
解からなかったからです。
解説を読んでなるほどと合点がいきました。

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
あん
2011/01/31 08:07
あんさん、おはようございます。毎朝ブログを更新してくれて、本当にありがとう。毎日続けるということはとても大変なこと事だと思います。多くのブログが出来ては消えていきます。続けるということは、とても大変なことです。わたし、あんさんのブログ大好きです。これからも楽しみにしています。
かずみ
2011/01/31 08:22
才木さんは、アスペルガー症候群ではないでしょうか。

なお
2011/01/31 08:29
(続き18)

 私の妹は、絶対音感を持っています。

 世の中では、これをもって天才的才能とすることが多いと思いますが、―そうかもしれませんが―、しかし、これは尋伺でいうと、尋(言葉による思考)だと思います。
 
 妹に話を聞いてみると、例えば、救急車の音が「ソドソド」か「シドシド」だったか何だったか忘れましたが、そういうドレミファ音で聞こえているそうです。
 確か鳥の声もそうだったと思います。
 
 本人に言わせると、「そう聞こえないのが、分からない」ということでした。

 妹は、ある程度の和音についても絶対音感を持っているのですが、もっと凄い複雑な和音についても絶対音感を持つ人もいると聞いた記憶があります。

 当然、そちらの方が才能があると世の中では言われるわけです。

 世の中の知識というのは大抵「尋」ではないでしょうか?そして、「尋」を巧みに操る人が天才とされることが多いと思います。少なくとも秀才と言われます。
 司法試験も結局、論文試験に通らなければ合格はしません。

 もし「伺」(ヴィチャーラ。言葉によらない思考)だけだったら、世の中では、学問のない人ということになるように思います。

 例えば、モーツァルトは、「伺」の強い天才だと思います。

 例えば、頭の中にいきなり曲が出来上がるということを聞いたことがあります。また、その当時の楽器ではモーツァルトの頭の中に再現されていた音楽は全て表現することができなかったというのも何かで見聞きした記憶があります。
 今の楽器(コンピューターなども含む)があれば、モーツァルトはもっと凄い曲を作ったのではないかとも思います。

 ただ、モーツァルトは、「尋」も、少なくとも、専門音楽家の一般レベルは備わっていたのではないかとも思います。 
ヴィーナス
2011/01/31 09:23
(続き19)

 ですから、私の仮説ですが、天才と言われる人は、「尋」もしっかり専門レベルに達しているのだけれども、おそらく「尋」までいかないで、「伺」でストップするとかそういうことが自在にできるのだと思います。

 譬えですが、鳥の声を聞く場合に、鳥の声として聞くこともできるし、ドレミファ音として聞くことも、自在にできるわけです。

 スマナサーラ長老は、しばしば数学の話をされますね。
 問題を観たら解答が出てしまって、後、(数式などの)言葉に現わしていくのに時間がかかるということだったと思います(出家される前に体験されたことだと思います)。

 なので、スマナサーラ長老は、「伺」を「尋」から切り離して自在に取り扱われ、その後に「尋」を用いるという天才的思考ができるのだと思います。
 
 多分、生まれつきの天才的資質・天才的才能として。
ヴィーナス
2011/01/31 09:47
 直前のコメント1行目「天才と言われる人」は「真の天才」に訂正します。
ヴィーナス
2011/01/31 09:56
サティ・ヴィパッサナー、
「観察の時間単位・実況中継の時間単位を、倍々に細分化して行き、分解能を上げて行く事が、進歩へのプロセス」というキーワードが頭の中に残ってました。
それが瞬時判断力の向上につながるんでしょうね。
直感も因果応報、実践で培われて行ってるのじゃないでしょうか。
自分はまだまだ全然^^;
歩くにも実況中継していればさっさとは歩けませんから

貴重なお話を知らせていただき、ありがとうございます

生きとし生けるものが幸せでありますように
358
2011/01/31 11:30
(続き20)

 ちなみに、私には、スマナサーラ長老のように、数学の問題を観ただけで、どんな問題でも瞬時に答えが浮かぶというような能力は今のところありません。

 ですが、高校時代、教科書にも書いていない解法で比較的短時間で問題を解いて、先生や周りの人を驚かせたりしたことはあります。
 成績は突出して良かったり、突出して悪かったりという極端なものでした。

 私が、これが「伺」(言葉によらない思考)なのかな?と思い当たるのは、詰将棋です。

 何手詰ということはここには書きませんが、観ただけで瞬時に解けたりします。

 どうやってその能力を身につけたかというと、自分の能力を最大限に使って何とか解ける詰将棋の本を買ってきて解くという方法でした。

 将棋の米長棋士が、プロになる人に、江戸時代の詰将棋の最高傑作「詰むや詰まざるや」「将棋図巧」(伊藤宗看・看寿作)を解答を一切見ないで、解くことを勧められています。
 
 その詰将棋には恐ろしく長手順のものも含まれており、物凄く難しくて、なおかつ、「詰むや詰まざるや」には詰まない問題も含まれているので、とてもではありませんが、将棋の才能がとてつもなくある人でないとチャレンジできません。

 私は、プロ棋士になる目的ではなく、頭を良くする、集中力をつける、試験勉強以外で気晴らしをするという目的でしたので、そこまでの問題にはチャレンジしませんでした。

 しかし、米長棋士の述べる趣旨は、自分の能力において、ぎりぎり最大限難しい詰将棋を、解答を一切見ないで解くということだと思いましたので、上に述べたような詰将棋の本を買ってきて解いたのでした。
ヴィーナス
2011/01/31 13:41
私は米長さんのファンで、名人になられた時、千駄ヶ谷の将棋会館での大盤解説を見に行きました。

将棋のメッカとあって、奨励会4段クラスの人らと話しましたが、「大局観」に
よる中盤での読みの深さが違いますね。

詰め将棋も訓練で勘が冴えてきますね。私もよくやりました。

中学の時の塾で、灘高の入試問題をいきなり黒板で解かされたことがあります。全く考えないで解きましたが、先生からは「天才的な解き方」と褒められましたが、皆平然と黙ってました。

開成や早慶クラスの数学の問題はスラスラ解ける生徒ばかりだったからです。

実際、ふざけて遊んでいる最中に数学の難解を出してみたら、その場で解答し、また遊びに戻った生徒もいました。

訓練で出てくる面もかなり多い。と思います。

その意味では、瞑想こそ訓練すべきだと思います(これは自戒です)。

2011/01/31 15:28
(続き21)

 数学者の藤原正彦氏は、このようなことを述べています。

 「世界中の数学者の中にはそれは頭のよい奴はいっぱいいますよ。たとえば、たいていの数学の問題なら見た瞬間ぱっと解いちゃうような。問題を読み終わったときにはもう解けてる。」

 (「世にも美しい数学入門」藤原正彦著、ちくまプリマー新書46頁)

 スマナサーラ長老は、このように仰っています。

 見かけが似ていても、それだけで同じだと思うことは問題です。カラスと水鳥はかなり似ていますが、全く能力は違います。

 世間でも、他人の真似をして不幸になる人が後を絶ちません。

 権力者の使用人たちは、自分も同じ権力を持っているような錯覚に陥り、不正を働いて、その権力者も道連れにして一緒に破滅するのです。

 才覚もないのに金持ちの真似をすると、破産するか自殺することで人生は終わるのです。

 善人の真似をするつもりが、犯罪まで犯して地獄に墜ちるのです。

 他人の真似をしたがるのは、空っぽの人です。真似する場合は、必ず自分より優れている人の真似をするのです。

 ですから、表面的に似ていることは、無知で高慢な人に勘違いを引き起こすのです。

 チャレンジするべきなのは、優れた人と表面的に似ることではなく、性格、智恵、能力などの中身で似るようにすることです。
(引用終わり。http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0212.html)
ヴィーナス
2011/01/31 16:29
(続き22)

 江戸時代は、徳川将軍家御前で将棋を指す御城将棋だったわけです(制度化されたのは徳川吉宗の時代からのようです)。
 徳川将軍家が治める江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲だったそうです。
 
 その基本的知識の上でですが、このような話があります。

 彼(伊藤宗看)は晩年、看寿(伊藤看寿)に名人位を譲ろうとしたらしいが、宝暦十年看寿が四十二歳で先立ってしまったので、伊藤看寿名人は実現しなかった。

 その宗看も、一年後に後継者も決定せぬうちに病没したので、将棋界も伊藤家も、全盛時代から一転して、名人不在の暗黒時代に沈潜したのである。

(引用終わり。カッコ内は引用者の補充)

 譬えとしては、徳川将軍家よりは、天皇家の方が適切なのですが。密命。
ヴィーナス
2011/01/31 17:30
 上記引用は、http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/musou/musou00.html からの引用です。
ヴィーナス
2011/02/01 07:02
(続き23)

 フェルマーの最終定理という数学の定理があります。フェルマーのある数学の定理についての予想です。1637年ころ出された予想と言われ、簡単に証明できそうに見える定理です。
 
 しかし、この定理の証明は、数多くの数学の俊英を退け、1995年にワイルズ教授によって、ようやく証明されたのでした。

 実は、フェルマーは数学はアマチュアで(専門が数学者ではないという意味です)、法律家が本業でした。

 そのフェルマーについてのお話を引用します。

 (引用開始)

 もうひとつフェルマーには悪い癖があった。

 それは、自分の数学の成果を海を越えた遠くイギリスの本職の数学者たちに、手紙として送りつけることにあった。

 彼は、手紙で「私は、コレコレの数学の命題を証明しました」と送るわけだが、そこで、フェルマーは、ただ「証明しました」と述べるだけで決してその証明の方法を書こうとしなかったのである。

 つまり、フェルマーは、数学の大先生達に、新発見の数学の定理を送りつけて、「おれは、こういう定理を証明したけど、おまいらに、その証明方法がわかるかな?m9(^Д^)」という挑発をしたのだ。

 もちろん、そんな挑発にプロの数学者たちはカンカンに怒った。

 「アマチュアが何を生意気な」とフェルマーが送ってきた定理の証明に挑戦するが、これが、難しく、その当時の最新の数学手法を駆使しても、まったく歯が立たなかった。
ヴィーナス
2011/02/01 07:13
(続き24)

 ついには、プロの数学者すら諦めて、「だ、だめだ!わからん!こんなのアマチュアが証明できたなんて、絶対 嘘だ!嘘に決まっている!」
 と、証明を投げ出そうとするが、

 そのたびに、フェルマーは、すこしづつ、証明のヒントを教えていく。

 「こんなものも、わからないの!? m9(^Д^)プギャー!!
 しょうがないなぁー、
 このヒント使ってもう一度やってみそ。
 (゚Д゚)つ ヒント」

 (引用終わり)
 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/f1.html

 何か私に似てますね。フェルマーと違って、相手はプロの数学者ではありませんが。
ヴィーナス
2011/02/01 07:16
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