幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS 冥想を始める前の自己チェック3項目

<<   作成日時 : 2011/02/01 06:07   >>

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ヴィパッサナー冥想を始める前にしてほしい自己チェックがあります。

1.人の話を聞いて理解する能力があるか?
2.正直で、素直な人間か、人に自分を良く見せようとしていないか?
3.やると決めて始めたことをやりとげるまで投げ出さない性格か?
  つまり 熱しやすく冷めやすく ではなく、やり遂げてから冷めろ、
  ということ。

この3つです。

残念ながら、このチェックをするとほとんどの人は失格になるのです。

仏教に興味を持つくらいですから、皆さん理解能力はあるのでしょう。

投げ出さない性格も訓練して身につけた人は少なくないと思います。



問題は2.なのです。



冥想会に来る人々は、指導者に褒めて欲しくて、他の人に

「あの人は冥想している」

と思われたくて、冥想を「演じて」しまうのです。




これは建前と本音という人間社会に根ざした問題です。

我々はたいてい本音を言わずに建前で生きています。


画像


社会ではお互いを信頼していない、いたわりあってないのです。

これは個人にはどうしようもないことです。



いきなり個人が本音を言いふらしたら、社会から追い出されます。


ですから、誰でも建前の自分を取り繕って生きているのです。




そこで冥想する場合でも、誰かが見ていると、どうしても自分を飾ってしまう。


そこで、私は

「冥想は自分一人でこそこそやってください」

と アドバイスするのです。



冥想する場合は、一人で自分の宿題として冥想してほしい。

そうすれば本音と建前の問題が消えて、心はみるみる成長する
場合があります。






パティパダー B.E2554 no.192/2011年 2月

智慧の扉  A・スマナサーラ長老、 編集 佐藤哲郎
















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コメント(60件)

内 容 ニックネーム/日時
おはよう諸君一同

なにを、今まで行って来たにせよ。

今なにかを、おこしてしまっても。

正直に、話して頂ければ、わたしは許します。

隠そうとか、隠したいとか、そういう気持ちを持つ人とは、わたしはけっして信用はしませんし、こころは開きません。

たとえ人殺しであろうが、邪な行為をしたものであろうが、嘘をついたものであろうが、与えられていないものを盗んだものであろうが、正直にわたしに言って頂ければ、わたしはあなたを信頼し、友達になります。たとえそのことによって、あなた以外の方に、どのような態度を受けようが、たとえあなたと、わたしの二人だけになろうとも、わたしはあなたを信頼し、友達であります。

建前で、自分をよく見せようとする方は多いです。

わざわざ自分の犯した罪や、情けない自分、隠しておきたい事柄を見せない方がほとんどです。

その隠しておきたいと思う事気持ちがある以上、いつ死んぬことになってもでも、今死ぬことになっても、今呼吸が止まってしまっても、どうってことはない。という心境にはなれません。

わたしは、いつ死んでも、平気です。なにも気になることが、わたしにはありません。

死ぬ前に、あの事が気になる、このことが気になる、なんて事柄は、一切ありません。

死ぬまでこのことは、言わないで隠しておこう、ということが、もしおありなら、早めに、両親なり、誰かに伝えることを、願います。

絶対に、死ぬ前には、そのことが頭に浮かび、後悔の念になるからです。伝えるべき人に、伝えておくべきです

自分が死ぬまで隠しておきたいこと

自分だけの心にしまって、死ぬまで持っていこうとされている方は、どうぞ、隠さないでください
才木広之
2011/02/01 07:07

今現在、その相手が、死んでしまっているなら仕方ないことですから、死ぬ前になって、「言いたい」ということにはなりませんが、死ぬときにその方が生きていたら、後悔の念になります。

今息が止まっても、心臓が止まってもおかしくないのですから、わたしたちは

ずいぶん大きな観点で見て、心安穏になりますgから、実践されることを、願います。

ブログでのやり取りで、心が乱れたなんて、小さなことですよ、小さなことを見つめていき、大きなところに行きつき、解決するということは大切です

しかし、その大きなところを解決しない限り、いくら小さなところを、解決してても、心の安寧は、得られません

一旦大きなところで、こころの安寧を得たなら、皆さん私から見ればかわいいものです。幼稚園児がやりあってるのを見て、かわいく思うような感じです。
才木広之
2011/02/01 07:08
おはようございます。

私の場合は、むしろ3のほうが大切だったとうで、「何事も、やり始めてからある程度の結果をだすまでだね」とスマナサーラ長老から指導されたことがあります。

2に該当するアドバイスはなく、スマナサーラ長老の眼力は卓越したものを感じます。

演じるのはずっと苦手でしたから。。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/01 07:46
(続き25)

 冥想の話題になっていますが、コメントの続きを書きます。

 詰将棋の場合には、専門レベルに到達するための「尋」(言葉による思考)の量がとても少ないと思います。
 駒の動き、反則(打歩詰めは駄目とか)を覚える程度です。
 
 なので、専ら「伺」(言葉以外の思考)を鍛えることになるのではないかと思います。

 数学の場合には、そうはいきません。沢山のルールを覚えなくてはなりません。つまり、「尋」が専門レベルに到達するのにはとても時間がかかると思います。
 
 だから、「伺」が生まれつき強い人でも、数学で力を発揮するには、それなりの時間がかかると思います。

 純粋に「伺」を体験しようとする場合、その部分を鍛えようとする場合には、昨日述べたようなやり方で、詰将棋とかそういうものをやった方がよいのではないかと思います。

 スマナサーラ長老の場合、「伺」と「尋」を切り離して「伺」だけで思考して、その後「尋」を使うという真の天才的思考ができるだけでなく、「尋」をマスターしようとする場合に、そのマスターの仕方にも何か天才的なやり方があるのではないかと推察します。

 一度、日本語の文章を読んで頂いたことがあるのですが、非常にゆっくり読まれ、とても驚いた記憶があります。
 
 英文の雑誌らしきものを読んでおられたような記憶もありますが、それも特別速く読まれているようには見えませんでした。
 
 しかし、実際には物凄いスピードで、そのその専門分野の「尋」をマスターする能力がお有りであることは、スマナサーラ長老の下で、仏陀の教えを学んでいる方々はご存じのことと思います。
ヴィーナス
2011/02/01 07:50
自分に対しても人に対しても、正直に素直に、そして慈しみの気持ちですよね。う〜ん、なかなかできないんですよね。
かずみ
2011/02/01 08:04
やりだしたら、何か成果を得るまで
やる性格だと自己分析していますが
冥想はぼちぼちです。
今日も明るく人の役立つ事を思いながら・・・

生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/02/01 08:04
 ブログ本文「2.正直で、素直な人間か、人に自分を良く見せようとしていないか?」の部分は心の騙し機能の問題が絡んでいると思います。

 心の騙し機能は自分で自分を騙していて自分では気づかない場合ですから、2の点は、自分に思い当たるところがないという点で、既に心の騙し機能に引っ掛かっている可能性も高いと思います。

 2の点に問題がないならば、たちまち預流果に悟る可能性が高いように思います。そうならないということは、2の点に問題もあると思った方がよいように思います。

 このコメント欄にコメントしている方でも、私が面識がある方はおられますが、スマナサーラ長老があまり強く叱ることができないのだなと感じる方がおられます。

 多分、強く叱るとしょげてしまって、説法を聴きに来なくなってしまうのだと思います。

 その方をスマナサーラ長老が叱ったことがあるのは、私がいる場では一度だけで、それも軽く叱った程度です。
ヴィーナス
2011/02/01 09:10
(続き26)

 該当分野の「尋」をマスターする場合、同時に「伺」を使うことになると思います。
 
 例えば、将棋の場合、駒の動かし方について、「金は、真後ろに一つ下がることができるけれども、ななめ後ろには下がることができない。銀は、ななめ後ろに一つ下がることはできるけれども、真後ろに下がることはできない」というルールを言葉で学びます(尋)。

 しかし、同時にその意味内容、イメージも学びます(伺)。

 なので、「尋」が働くときは、「伺」も働いていると思います。

 禅定において、第一禅定では「尋・伺」があり、第二禅定では、「尋」が消え「伺」だけになり、第三禅定においては、「伺」も消えるとされていると思います(これはアビダンマの分類です)。

 「伺」が消えて「尋」があるという禅定はないわけです。

 それは上の将棋のルールの譬えから明らかだと思いますが、事実としてありえないのだと思います。

 なお、経典では、第二と第三に分けず、第二の一段階だけにしています。「尋・伺」がある場合が第一禅定で、第二禅定においては、「尋・伺」が消えるという意味だと思います(詳しくは、ブッダの実践心理学2、サンガ255頁末行以下のスマナサーラ長老の説法をお読みください)。
ヴィーナス
2011/02/01 09:25
(続き27)

 もう少し書いておくと、言葉によって思考するという場合、意味内容を把握していないならば、「思考」にはならないと思います。
 ですから、「尋」が働く場合には、「伺」も働いていると思います。
 
 ところで、スマナサーラ長老が「尋」をマスターしようとする場合に、そのマスターの仕方にも何か天才的なやり方があるのではないかと推察しますということを、(続き25)で述べました。

 一つ思い当たるのは、スマナサーラ長老の語学の習得の仕方です。
 長老が、「意味内容につけている言葉を日本語から外国語に入れ替えて習得する」という趣旨のことを仰られた記憶があります。
 尋伺に引き直せば、「『伺』に貼っているラベルであるところの『尋』を日本語から英語に入れ替える」ということになるのではないかと思います。
 
 昨日、NHKで武田信玄やその武将のことを英語で語っている番組がありましたが、その意味内容(伺)は、私は既に知っていることでした。

 そこには、内藤、馬場、山形、真田といった武田の側近家臣団の名前が出てくるわけです。

 それで、その人たちの紹介をしているのですが、warriorという単語が出てくるのです。

 私はずいぶん英語から離れていましたので、その文脈から離れた辞書的なwarriorの意味内容は忘れていましたが(後で思い出しました)、その人たちが、武田の武将であることは分りましたから、日本語としては「武将」なのだろうという推察がつきました。

 つまり、まず武田信玄関係の話を知っていた私は、意味内容(伺)を知っていたので、「武将」というラベルを、「warrior」というラベルに張り替えたわけです。

 多分、スマナサーラ長老は、こういうことがもっとハイレベルで、自在に、かつ、簡単に行うことができるのだと思います。
ヴィーナス
2011/02/01 10:08
このコメント欄を見てもこころの騙し機能は恐ろしいです。
本人は自分が正しいというか、自分が世の中を直す神様気分でいるわけですから。
主観ですけども
↓↓
【一番の問題な隠し事って《私は正しいという呪縛にかかっていることを認めない》ことだと思います。】↑↑

先生や出家者のような指導者の立場になりたいという傲慢な気持ちで教えているのか、又は慈しみから教えているのか、見極めたいものです。

皆様

お話した通り少しこのコメント欄から距離をおくことにします。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/01 10:14
慈しみの心は、それは大切で、いつも慈しみの心でいることは、大切なことです。

しかし、こころに小さな傷でも、出来事でも、何年も放っておくと、それは大変に、大きく膨らんでしまいます

やはり出て来ようとする訳です。

わたしの言う、隠し事とは、このようなことです。

誰かを好きになれば、好きと言えばいいし

誰かを嫌いになれば、嫌いと言えばいいし

ありがとうといいたければ、言えばいいし

ごめんなさい、言えばいいし言いたければ

その気持ちを隠すこと事態、建前で隠す事態、

隠しごとですよ、と言いたいのです。

心のなかで思ったことを、隠すのも、隠し事ですよ、

心のなかで思ったことを、隠さない生き方にすれば、

本当の意味で、それが実践しかないのですよ

だって決して隠せないのだから

悪い気持ちすら持つことも、隠せないのですから

実践ですよ、と言っているのです。

ですからわたしは、そのつどそのままの気持ちを書きますが、そのほかの裏の気持ちはないのですよ

建前と、本音が、ないのですよ

わたしは、あなたのこういうところが嫌いだと、

何人の人にも面と向かって、目を見て、言った経験の持ち主ですよ

そのいずれの方も、一人残らず、完全な信頼関係を、築きましたよ。それこそ、兄弟か、両親か、母親をもつ子供のような、関係ですよ。

才木広之
2011/02/01 12:45
わたしの言ったことができて、初めて信頼関係は気づけますよ。一緒にいても本当に楽ですよ

っと仕事なり、学校なりでの人との生きていく上で楽ですよおおもとの、こころは安寧しますよ、と言っているのです

だけど、気は抜けませんよ、嫌いだと思えば、わたしは言うのですから、信頼できないと思う方にはには、そのまま信頼できませんとも言うのですから。

命がけですよ、大人としては。

子供はすぐに言いますね、幼稚園児ぐらいですね

「あんた嫌い」それを言われた相手は、その子のことを、信頼してしまうんですね。だって隠し事をしないと解るのですから

子供が、母親にも言いますね、幼稚園児ぐらいの素直な時には「もうお母さんとは口きかない」っていうんですね。正直なんです。本音と建前がないのです。それでいて信頼関係はどんどん深くなるわけです。

別に信頼関係が善いとか、悪いとか言いたいのではないですが

仕事場や、学校などで、いやでも一緒にいなければいけないのなら、信頼関係はあったほうがいいのです

私がある方を、相手にしませんと言ったのも、信頼関係の証です。相手にしないほうがいいと思えば、相手にしないほうがいいのです。しかしいっしょに同席するなら、相手にも伝えれば、相手にも分かって頂け、心安穏でいられるわけですあ
才木広之
2011/02/01 12:54
才木さん。

かつて質問した記憶がありますが、私のコメントをみてどう思われますでしょうか?

一応参考にしたいと思います。

率直な意見をお願いします。

ところで、ツヨシさんはどうされているのでしょうか?

2011/02/01 13:25
(続き28)

 これまで、「伺」を体験したり訓練する方法として、私は詰将棋を提案しています。理由も述べてきました。

 しかし、その「伺」はあくまで詰将棋についての「伺」ですから、それが他の分野にどれほど応用されるかは分かりません。
 ただ、私の感覚としては、数学には非常に役に立つように思います。類似性があるからです。

 それで、プロ棋士の中には、現在、詰将棋について、簡単な問題を沢山解くのがよいという人もおられますし、タイムトライアルで競争させたりする人もおられるようです。

 分からなかったらすぐに答えをみてよいという人もいます。

 将棋のプロの仰ることですから、将棋は強くなるのでしょうが、しかし、私は、この点は、受験勉強的なパターン暗記(といっても理解は伴う暗記ですが)となってしまい、「尋」が強く働いてしまう可能性も高いと思っています。
 
 また、他人との競争は短期的には効果が上がるかもしれませんが弊害が大きいと思います。

 詰将棋を解くときは、@本屋などで確かめてみて、自分の能力を最大限活用して解くことができるぎりぎりのものを選ぶ、A解答は決してみないで諦めずに解く、ということが大切だと思います。

 自分で高めのハードルを設定してそこを飛ぶことにチャレンジをする、自分に挑戦するところが大切だと思っています。
ヴィーナス
2011/02/01 13:42
ヴィーナスさん。

大事な前提が抜けてるように思います。

それは、プロの対局を観戦したり、自分で将棋を指すなどして、将棋に興味がある。という前提です。

そのような前提さえがあれば、将棋に限らず様々な分野で可能かと思います。どれだけ興味を持って集中できるかが、まずは大切だと思います。

様々な分野で天才が現れるのはその証拠だと思います。

2011/02/01 14:51
(続き29) 

 数学ができる人というのは、グラフや図形で考えていると思います。つまり、「伺」を使って考えていると思います。
 
 ガウスレベルになると、どうやって考えているのか想像もつきませんが、通常の数学ができる人というのはそうでないでしょうか?
 
 その事実を、数学が不得意な人は知らないと思います。
 
 それで、そういう人が親になった場合に、子供に数学を教えようとしてもポイントが分からないと思います。
 
 ある程度、数学ができる人ならば、詰将棋が数学に非常に役に立つということは分ると思います。

 しかし、どうしても受験勉強ということが頭にあると、それに引っ張られて、その詰将棋自体がパターン化したり、競争化したりしてしまうと思います。

 私はそこを危惧しているわけです。

 少し話は変わりますが、私が大学受験の時ではありませんが、必要があって読んだ本に「ゼロから学ぶ微分積分」(小島寛之著、講談社)という本があります。
 また、この先生の「ゼロから学ぶ線形代数」(講談社)という本も、部分的に読んだことあります。
 
 これら小島先生の本は、数学者の思考の舞台裏が出ていて、如何にイメージ力、「伺」が大切かということが分かると思います。

 前に数学者の藤原先生の言葉を引用しましたが、数学者は、普通、こういう舞台裏を明らかにしません(http://77713696.at.webry.info/201101/article_29.html の2011/01/29 13:21以降の私のコメントに引用しています)。

 小島先生の本でも全部が明らかになっているとは思いませんが、しかし、数学者の思考の一旦は観えると思います。
ヴィーナス
2011/02/01 15:23
数学セミナーという雑誌があります。

かなり前のものに様々な数学者のコメントがありました。その中で「小説を読むと数学が出来るようになる」というのが、ありました。

藤原正彦さんのコメントなどもありました。当時無名でしたが。。

私の場合は、小説に興味を持ってましたが、本格的に読み出してから、俄然数学の閃きが強くなりました。

当時は将棋は苦手でしたから、まさに人それぞれという意味です。


2011/02/01 16:05
(続き30)

 例えば、そもそも、数学の問題文の意図を読み取るのが苦手という人もいるわけです。そういう方は小説などを読んだ方がよいかもしれませんが、私には何とも言えません。
 
 前に、藤原先生が書かれてましたが、例えば、日本語では、「美しい妻と娘がいる」と表現した場合に、美しいが妻だけにかかるのか、娘にもかかるのか分らないというようなことでした。
 日本語では、曲線AとBという表現を用いた場合に、曲線は、Aだけなのか、それともBも曲線なのか分らないわけです。
 ある数学者は、曲線たちAとBなどと無理やり表現したりするらしいです。
 
 これは一例ですが、「尋」が強い方は、こうした微妙な表現に引っ掛かってしまって、問題文の意図が読み取れなくなるということはあるかもしれないと思います。そういう方は小説を読まれた方がよいかもしれません。

 それと、数学は私のポリシーとしてはシンプルが一番と思っています。

 藤原先生は「美しくなければ数学ではない」という立場だと思いますが、「数学者が美を感ずるのは『単純が、複雑で多様な現象を規制している時』であると仰っていますから(「古風堂々数学者」新潮文庫117頁)、似たような美意識を持っておられるように思います。

 そういう独特な美意識は小説などを読むと培われるのかもしれません。

 ただ、私はほとんどといってよいほど小説は読まないので何とも言えません。
ヴィーナス
2011/02/01 16:38
(続き31)

 これに対し、詰将棋はおそらく数学をやる場合には多くの方に役に立つと思います。イメージ力、「伺」は数学には不可欠な能力だと思うからです。

 イメージ力を鍛えるには、そろばんなどもありますが、私はそろばんはよく知りませんが、そんなに論理性がないですよね。
 その点で、詰将棋とは異なると思います。

 余談ですが、小学校の授業でそろばんを教えてもらったのですが、暗算で解く方が速かったので、暗算で解いてしまって、その後、そろばんの玉を暗算で出た解答に合わせて形を整えるというインチキをやっていました。

 それから、2つ前のコメントで小島先生の微分積分の本などを紹介したりしました。でも、これらも鵜呑みにはしないで頂きたいと思います。

 例えば、微分で図形グラフ的にどうかな?と疑問に思うところがあります。これはこの本だけには限らず、どの本でもそうですが。

 ちょっと難しくなるので、新さんでないと分らないかもしれませんが、微分の原理を説明するにあたり、微分の式においては割り算をしてから、limをとらないといけないのに、グラフ・図形においてはlimをとってから割り算しているような感じがします。 
ヴィーナス
2011/02/01 16:52
ここはお釈迦様の教えを学ぶところです。

自分のこころに浮かんだことを何でもかんでも話すあるいは書き込むことは、お釈迦様の教えではありません。その時、その時取捨選択するものです。
その点は、スマナサーラ長老が厳しく指摘しています。

あなたが、正しいと思ったことを執拗に書き込む場所でも、他人にとってはどうでもいい無駄話を報告する場所でもないのです。

あなたが、お釈迦様の道から離れたければ、ご自由にどうぞということなのですが、やりたければ、自分のブログでおやりになって下さい。

慈悲と知慧
2011/02/01 17:40
新さんが話に出した。ツヨシさんのブログを見たことがありますが、才木さんの何日にも及ぶ一方的かつ執拗なコメントが正解に覚えてないですが、一つの記事に30近くあったような気がします。その30近いコメントに才木さん以外のコメントはありませんでした。いま、どうされているかは分かりませんが、ワンギーサさんも心配されていましたね。

慈悲と知慧
2011/02/01 17:50
↑上の私のコメントは正確でない部分もあるかもしれませんが、ツヨシさんのブログに書き込まれた才木さんの異常なコメントにぞっとしたことは良く覚えています。
今の才木さんはあそこまではなさらないとは思いますけどね。

慈悲と知慧
2011/02/01 17:59
慈悲と智慧さまに同感です

自分の時間を無駄使いしないようにしましょう。
人の時間を無駄に使わせないようにしましょう。
水道から流れる水のごとくに
お話にはキリがありません。
このコメント欄が人に煩悩のうずを作るので
しょうか。
素直に自分を見つめて精進していきたいものです。
あん
2011/02/01 18:02
 慈悲と智慧様の17:50〜17:59までのコメントは、才木さんに対するコメントと理解してよいでしょうか?
 
 才木さんのコメントが直前にはなく、私のコメントが(続き31)になってますので、慈悲と智慧様が私を批判していると思う人もいるのではないかと思いまして質問させてもらっています。

 あるいは、才木さんが私になりすましていると思う人もいるのではないかと思いまして質問させて頂いています。

 ツヨシさんのブログはこちらですね。http://tadasiku.at.webry.info/
ヴィーナス
2011/02/01 18:42
 間違えました。17:40〜17:59までのコメントです。
ヴィーナス
2011/02/01 18:43
慈悲と智恵さん。あんさん。

大変申し訳ありませんでした。

話しが脱線しすぎました。

ここは「お寺」と思って、今後気をつけます。

無駄話するのはご法度でした。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/01 18:47
 新さま。今話しているのは、無駄話ではありませんよ。
 尋と伺に絡む問題ですから。

 尋に拘っているアビダンマの御人もおられるのですから。

 スマナサーラ長老が説かれるブッダの教えを守ることに貢献していると思います。
 
 ちなみに、先に紹介しました線形代数の本には、『クラメールの公式』がグラフ、図形を用いて説明されていたと記憶しています。
ヴィーナス
2011/02/01 18:54
あんさん失礼します

新さんこんばんは

新さんはお会いしたこともなく、困った時はダンマパダから、の新さんだと思って、コメントを見てます

僕から見て、普通の人のコメントだと感じます。

わたしにとっては新さんは善友です。完全に信頼してます。わたしに対してはけっして偽らない方だと私自身は思っていて、わたし自身の心としては疑がなく接することができる人です。それは新さんがどう思われようが、私自身としては、この先も、疑いをもつことなく接せられる人です。一旦疑をなくされている、新さんに、もう二度と、疑が発生することは、ありません。断言します

コメントの細かな内容よりも、行動というか、対応というか、こころと言うか、そこを見ています
才木広之
2011/02/01 19:17
ツヨシさんについてですが。

この方もあったこともなく、顔も知らず、

困った時はダンマパダで、コメントを見たにすぎません。

何度も、一通りツヨシさんのブログを、見させていただきましたが何度か見ているうちに、言われていることの、内容がつかめてきました。「あーそうか」と解ってきました。非常に繊細で、まじめな方の印象を受けました。完ぺきにまじめなら、出家しない限りは生きてはいけません。完璧にまじめなら「死ぬしかない」というところにしか行きつきません。在家では、まじめになればなるほど、「死ぬしかないというところに行きつきます」まじめであればある程、わたしのように精神異常のように見られます。わたしはすでに死んでいますから、いつ死んでもかまわないからいいですが。ツヨシさんという方は、わたしの言うところでの、狭間におられるような印象をブログからは受けています。

本当に死と隣り合わせん所に、すぐそこに、悟りはあると思いますが、そこでそのまま死んでしまうか、たとえ死ぬにしろ、生き延びるにしろ、悟りの光が現れるかどうかはは、正に今まで積んできた、守ってきた、心の業によってきまると思います

新さんの返答になってるかは、解りませんが、わたしの精いっぱいのコメントです

幸せでありますように。
才木広之
2011/02/01 19:30
才木さん、ご返事有難うございます。

ツヨシさん、非常に真面目で繊細な方のように思います。

多分、今時珍しい好青年だと思います。

実は、ツヨシさんのことは気になっていたのです。

私も個人的には面識もありませんが、元気でいたらコメントでもして欲しい。と願っております。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/01 19:53
ヴィナース様

ヴィナース様ではなく才木さんに向けてのコメントです。
ヴィナース様を批判した訳ではありません。
慈悲と知慧
2011/02/01 19:59
ヴィーナス様
貴方様の知識にはびっくりいたします。
記憶力といい、感心させられます。
しかし、かなりの量のコメントを一方的に書かれて
いるのは事実ではありませんか?
すべてが迷惑とは言いません。
とても参考になる事もおっしゃっておられて
勉強になると感じることもございます。

それにも「程度」
と言うものがあると思いますよ。

スマナサーラ長老は
「人格者は謙虚である」とおっしゃって
おられると思います。
それを本当に知りたい人に教えてあげるのは
親切だと思います。
あん
2011/02/01 20:06
わたしの小、中、高との善友二人は、もうすでに死にました

二人とも、完全にまじめな人でした。

脅されようが、蹴られようが、決して、自分の正しい行いを曲げない方です

一人は、バットで殴られ死にました。後で知り病院に駆けつけましたが、三週間ぐらい、意識不明で、そのままなくなりました

働き出してからのことで、祭りの日でした。私たしが、仕事が終わり、夏祭りの会場に行くと、ガラスの割れた、車がありました、そして祭りも終りに近かったので、だれもいませんでした。

僕は長い付き合いだったから、その子のことは、解ります。今までもけっして人に屈することがない人でした、自分が正しいことをしてれば、生意気だと脅されようが、蹴られようが、その子も謝らないものだから、余計腹を立てて相手は脅そうとしますが、決して屈しない人でした。だから死んで当然と言えば当然です、この世の中では。

才木広之
2011/02/01 20:06
もう一人も全く同じような子で、その子は交通事故で死にました。二車線の,登坂車線を走っていたようで、大雨の日で追い越し車線を大型車が、追い越して行ったようで、雨で全く視界がなくなり、そのまま登坂車線の朱点にぶつかったようです。

一人目の子は、三週間後ぐらいに、もう一回様子を見に行こうと思った、その日になくなっていて、その次の日にお線香をあげに、自宅に行きました、今もお墓の前を通る時は、掃除してあげます。

その子は最後まで、正しいと思うことを、曲げなかった子です。

極端にいえば、相手が包丁を持ってきて、お金を出せといっても、決して屈しない子です。ですから、死ぬのですが。

二人目の子も、同じような子でした

僕も当然、全く同じような、人間です

だから、小、中、高、と友達だったのです

わたしも同じ性格ですから何度となくそのようなことはありましたが、死んではいません。

橋の上で、胸倉つかまれて、はなされれば、落ちて死ぬようなこともありましたが。なにも悪いことをしてなかったので、あなたの気の済むようにしたらいいです、と言ったら、落とすことをしませんでした

話せば、そんなことは多くありますが。そこで、自分が正しいことをしていたら、曲げる必要などないのです。

それを曲げないで、死んだなら、大いに、死ねるのです

すみません、何か独り言を書きました、すみません

けど二人のためにもちょっと投稿させてください
才木広之
2011/02/01 20:06
因みに、才木さん以外の新さんや他の方を批判した訳ではありません。

では何が違うか、それは程度です。

ツヨシさんのブログを見ていただければ分かると思います。
慈悲と知慧
2011/02/01 20:08
それから一応誤解があるといけないので書きますが、在家は、実践すればするほど本当は明るいのです。

真面目という表現自体が曖昧で、自分が正しいと思えば思うほど、ネジ曲がってしまうのです。

慈悲と知慧
2011/02/01 20:17
では言いましょうか、慈悲と智慧さま

車乗りますよね、制限速度がありますよね、夜中に走って御覧なさい。もうぶつかるんじゃないかという感じで、後ろの車近付いてきますよ、前に回り込んで急ブレーキ踏む車だっていますよ。僕は大阪でも、東京でも、交通ルール守りますよ。

大阪でも東京でも、赤信号を渡ってくる人がいたら、顔みますよ、「赤ですよ」という意味で。。。

「なんじゃあ」と言ってくる人には、正々堂々と、「赤はわたってはいけないんですよ」と教えてあげますよ。

身障者のところに車を止めた人を見たら、またその時も「顔」を見ますよ。気づいてるのかどうかと思って様子見るのに顔を見ますよ。「何か文句があるんか」と言ったら「大変ですね、頑張ってください」とすたすた歩いて店に入る人にでも行ってあげますよ

ずーっとそうして、昔から普通に、まじめに生きてきてるんですよ

あなた方のまじめって、どういう風な感じで言われてるかわかりませんが

真面目に生きていこうと思えば、この世の中では、命がけですよ。

大阪でも、東京でも、地元でも、平気で僕は言いますよ正しいことは正しい、間違いは間違いですから

それは命がけでやるつもりはないんだけど、結果として、普通にまじめにやってれば、命をかけるようなことになるんです

道端に、ごみを落とす人がいたら拾って、おとしましたよ、と渡してあげますよ、今でもわたしは、

それは普通にまじめなことでしょう。ポイ捨てはいけないんだから、落としましたよ、と普通に渡してあげるだけなのに、もうそれが、相手によっては生きるか死ぬかのようなところまで行くときもあるんですから、この世の中は。
才木広之
2011/02/01 20:36
わたしは何社か、会社を辞めましたが

なぜだか分りますか。

真面目をとおすことができないから、やめたのですよ

それは些細なことかも知れませんが、それでも、まじめなことを通そうと思うと、できないんです

真面目というのはですね、社会で決められた決まりを守るということですよ。

普通に決まりだから守るだけなのですよ

その普通のことを真面目にしようと思えば命がけだということです


才木広之
2011/02/01 20:43
スマナサーラ長老の場合、ドカーンと相手の固定観念をまずは壊すわけです。つまり、その方の聞く体制を整えてから、お話しされます。

これは賢者のなせる芸当です。

「相手に聞く気持ちがない場合は全て無駄話」とスマサーラ長老から教えて頂きました。

今回の場合、例といえども数学や将棋など(多分、マニアックな話題)の方向へ進み過ぎた。と私は思います。

実は、「将棋否定派の遠山啓さん」と「将棋を趣味とされていた矢野健太郎さん」という二人の数学者(数学教育者)の対比で、論じたコメントがエラーになり、その後、慈悲と智恵さんのコメントを見て、「しまった!」と思ったわけです。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/01 20:47
 あんさま。ご発言を撤回された方がよいと思います。
ヴィーナス
2011/02/01 20:51
本当に心が清らかな人は、他人からの評価に依存しないのです。

唯、淡々と自分と他人の為になることをするのです。
そうすると、誰もじゃましないし、邪魔も気にならないのです。

「わたしは正しい事をしている、だからあなたたちも私に同意しなさい」
と正義を押し売りするから、邪魔をされ、そして、邪魔されても気にならないのです。

慈悲と智慧
2011/02/01 20:53
最後の一文訂正します


邪魔されても気にならないのです。

→邪魔されて怒るのです。

慈悲と智慧
2011/02/01 20:55
ちなみにわたしはあんさんの投稿制限を目安に投稿しておりますから

あんさんが嫌だとか、他の方の迷惑になっていると思われれば、投稿制限してください

わたしは大まじめに、良かれと思って書いてるだけで

あんさんのブログですから、あんさんが周りの迷惑だと思われれば、投稿制限すればよいのです

だって、誰にしたって、悪気があって、投稿してるんじゃない、その本人は良かれとそれぞれが、それぞれ投稿してるわけですから

ルールを作るのは、ブログの管理人あんさんしかありません

ちなみに宣伝ですが、わたしのブログは、投稿制限なしコメントし放題、管理人の消したい放題、ですが誰もコメントめったに来ません。いいですねあんさんのブログは、多くのお方が集まって
才木広之
2011/02/01 20:56
悟った人がこの世の表舞台には出てこないように、賢者はコメントはしないと思います。喧嘩の中にも入らない。同じレベルの心を持ったものは引き寄せられる、というのと似ていると思います。ということで私も愚か者です。それは残念です。賢者から避けられている、アドバイスも貰えず素通りされ、ずーっと同じ場所に留まる。瞑想頑張りましょう。
ユウタ
2011/02/01 21:03
才木さんの例でいうと、高速で、本当に心が清らかな人は、その状況を悪いことせずにゲームのように楽しんでクリアするのです。
決して【わたしは正しい事をしている、だからあなたたちも私に同意しなさい】という態度は取らない。楽しんでクリアしてしまうのです。
慈悲と智慧
2011/02/01 21:03
以上が下記の答えです。

在家は、実践すればするほど本当は明るいのです。

真面目という表現自体が曖昧で、自分が正しいと思えば思うほど、ネジ曲がってしまうのです
慈悲と智慧
2011/02/01 21:08
ですから楽しめばいいですよ、ゲームのように

生死を視野に入れずに楽しめばいいと思いますよ

わたしはできますよ、ルールを守って、楽しんで、死ねばゲームオーバーでしょ。

ゲームと言えど、生死を考えているでしょう慈悲と智慧さまは。

ゲームなら生死も関係なく楽しめるでしょう

実践できてるかどうかということですよ

わたしは社長が間違いをしているとしれば、間をおかずすぐにぱっと指摘しますよ。だれにでもやっていますよ、社会のルールを守っていれば正しいし、破っていれば間違いだし、ルールがおかしいと思えば、その作った人に意見するのが、それまたルールでありますし

ここで自慢しておきます、わたしは数多く会社を辞めてきましたが、この世間では融通の聞かない超まじめな人間ですが、今は会社の取締役です。なんでなったと思いますか。多分その会社が超まじめで、わたしのような超まじめな人を必要としてたんだろうと思います。

ですから命がけですが、実践すればするほど楽しいですよ。けど生死によって自分の心が、曲がったり、横道それるようじゃ、楽しめないんだよ。

だから僕は、楽しいよ。

才木広之
2011/02/01 21:22
スマナサーラ長老の本の題名にもなっている【人生はゲーム】ですは、そういうことだと私は思いますよ。

私は、スマナサーラ長老から真面目だと言われたいという願望はありません。
スマナサーラ長老から【あなた、ゲーム上手いですね】といわれたら、結構ハッピーですね。

じゃあどうすれば、ゲームが上手くなるか、それはありのままの【観察】です。

私が、あんさんに紹介した【突然頭が鋭くなる〜】は、このブログでは、引用されていませんが、観察について書いてあるのです。この世の中を痛快にに生きるための智慧が書いてあるのです。
そして、その観察をもっと楽しむ方法が【ライバルのいない世界】に書いてあったんですよ。
だからこのブログのコメントで書いたのです。

残念ながら誰も気づきませんでした(笑)

慈悲と智慧
2011/02/01 21:28
それではわたしは、お経と、慈悲の冥想とヴィパッサナー冥想をはじめますが、よろしいですか?
才木広之
2011/02/01 21:33
 今は、非常事態ですからね。

 「尋」ではなく、「伺」で聴く人だけ私の真の狙いは理解できると思います。

 要は、言葉の裏で何を伝えているのか?、なぞなぞです。

 だから、私は、法律家でありながら、数学者に自分の発見した数学の難問を送りつけ、少しずつヒントを出したフェルマーに似ていると思います。
ヴィーナス
2011/02/01 21:38
えーっと誰もコメントないようなので

明日からは、一日一コメントにします

あんさんの紹介の御本感想書くのに、一コメントあればじゅうぶんですからね。

では、今日は勝利の経からです。

〜生きとし生けるものが、幸せでありますように〜
才木広之
2011/02/01 21:45
おーい、ちょっと待った!話しが違いますよ。私は「ライバルのいない世界」の愛読者です。

ただ、慈悲と智恵さんが、ヴィーナスさん個人へのコメントされたので黙ってました。

敢えて苦言を申し上げれば、「特定の誰か」に対するコメントなのか?「全体」に対するコメントなのか?を明確にされた方が、今後誤解も減るように思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/01 22:16
 なぞなぞ解く気がない人もいるでしょうし、「尋」があまりにも強すぎる人もいますね。
 そうすると、私の話を「伺」で聴くことはできませんから、道化役を務めて頂くことになります。
 本人は気づかないかもしれません。
ヴィーナス
2011/02/01 23:07
新さん

そうですね。確かに私の場合は誰へのメッセージなのかが曖昧だったところがあると思います。
以後気をつけます。
慈悲と知恵
2011/02/01 23:22
皆様

真面目というより、【観察】を楽しんで仏教的に明るくいきましょう。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/01 23:25
一応書いておきますが。

上の誰も気づきませんでしたとの文章。決して怒っている訳ではありません。

あんさんが、引用した箇所を批判しているわけではありません。

ちょっと私がかっこつけて書いたという感じです。
つまり自我が入り込んでいるのです。
私が覚っていない証拠です。
慈悲と知慧
2011/02/01 23:34
では皆様、五蓋を押さえて、真に「尋と伺」を自らの体験として自在に、正しく語れるようになりましょう!

きっとそこには、正解への道が開かれているのでしょう。肉体への執着。。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/02 00:20
最後に。。

かつてある局面で「詰み」は瞬時に解りましたが、まさかの一手詰めで、悔しい思いをしたことがあります。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/02 01:02
(続き32)

 実は、スマナサーラ長老が、将棋を勧められていると受け取れる説法があります。もちろん、在家の人に限ってだと思いますし、執着するようだと駄目だと思います。
 また、その趣旨をしっかり踏まえている必要があると思います。

 その説法を引用します。

 Q:思考に頼らず、正しい、有益な決断、決定ができますか?

 A:有害な思考と、有益な思考があります。

 思考を直す方法として、お釈迦さまがおっしゃっているのは、人間は何を考えても欲のこと。怒り、嫉妬、憎しみのこと。あるいはダラダラとどうでもいいくだらないこと。この3つでしょう。…中略…

 それを直す方法は、貪瞋痴の思考を直すこと。お釈迦さまは、貪瞋痴の反対の思考で、ネッカンマサンカッパ(厭離)のことを考えてみてください。…中略…

 それから、無知。ごちゃごちゃと考えるんではなくて、すごく智慧のきいたことを考える。

 インテリのゲームがありますね。クイズやパズルとか。それをやっていると気持ちがいいでしょう。

 たとえば将棋とかね。将棋はチャンスゲームではないでしょう。サイコロでやるのがチャンスゲーム。うまく転がってくれればついているし、いい数字が回らなかったらついていないということで。

 将棋の場合は、思考の勝負なんですね。

 そのように、いつでも何か智慧のきいたことを考える。…以下、略

 (引用終わり。http://www.j-theravada.net/dhamma/oriori8.html ) 
ヴィーナス
2011/02/02 06:42
(続き33)

 今、スマナサーラ長老の能力と、Xという人物の能力を同じくらいと思っている人が沢山いるとします。

 そして、スマナサーラ長老の説かれる仏陀の教えとXの説く教えが同じ(又は似ている)と思っている人がいるとします。

 数式に単純化すれば、「スマナサーラ長老=X」です。

 ここにYという人物が現れました。Yは、スマナサーラ長老が圧倒的に自分よりも能力があり、超越した智慧をお持ちであることを認めています。
 Yの能力を1とすれば、スマナサーラ長老の能力は無限大です。

 これを単純に数式化すれば、

 (スマナサーラ長老=∞) > (Y=1)

となります。

 ところが、Yの文章を読んでみるとなかなか能力がある。
 
 Xと対等、もしくは、Xよりも能力は上かもしれないと多くの人は思うようになってきました。

 これを数式にすれば、

 Y≧X

 となります。

 すると、(スマナサーラ長老=∞) > (Y=1)ですから、
 
 (スマナサーラ長老=∞)> (Y=1) ≧ X(1以下)

 となります。

 結局、

 (スマナサーラ長老=∞)> X(1以下)

 が証明されることになります。
ヴィーナス
2011/02/02 10:05
冥想を始める前の自己チェック3項目 幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜/BIGLOBEウェブリブログ
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