幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ▲3 ”気づき”だけが妄想を消すことができる

<<   作成日時 : 2011/02/09 06:13   >>

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ところで、すべての瞑想がそうなのですが、とくにこのヴィパッサナー瞑想法を
実践している人に困った現象が現れます。
それは、瞑想中に妄想に悩まされるという現象です。


この妄想はどんな人にも必ず現れる現象で、
妄想に悩まされたからといって

瞑想が下手だとか、
うまく行ってないということはありません。


妄想が出る出ないは、

瞑想の状態のいい、悪いを表すものではない、

ということだけを最初に申し上げておきます。


瞑想をすると、人は必ず妄想に悩まされます。
瞑想をしているのか妄想をしているのかわからないというほど
しょっちゅう妄想が出てくるのです。

ヴィパッサナー瞑想は妄想との闘いだと言っても
過言ではないと思います。


何かを求めて修行すると、修行は進みません。

ですから、私は「何も求めずに、期待も希望もせずに、
ただひたすらに今の自分を確認してください」と
皆さんに申し上げています。


それがヴィパッサナーの正しいやり方なのです。

ところが、やはり人はどうしても瞑想が上達したい、正しい瞑想をしたい、
などという目的を持ってしまうのです。

皆さんは勝手に、「すぐれた瞑想」や「正しい瞑想」
というイメージを描いているようなのです。
画像


ところが、そのイメージはたいがい間違っています。
その間違ったイメージに基づいて、
「自分の瞑想は思うようにいかない」
「なぜか妄想がどんどん出てきてしまう」

などと自分の瞑想体験を低く考えたり、
否定的に評価してしまっている人が多いようです。


その結果、瞑想修行をしても「また妄想ばかりでダメだった」という
イヤな気持ちで終わっているようなのです。

これこそ、大きな間違いです。


瞑想をしていない日常生活のなかにあっても、
私たちは知らないあいだに
ほとんどの時間を妄想のなかに生きています。


生きているのは今だけなのであり、
この今の瞬間こそ大切にして、
今の瞬間を堂々と、元気で力一杯、明るく生きていかなければならないのに、
私たちはそれができません。




せっかくこの世に生まれて生きているのに、
私たちは今の瞬間瞬間を大事に生きることができない。


今の瞬間を、元気で、力一杯、明るく幸福に生きることができない。

なぜでしょうか。


なぜ、今の瞬間に幸福に生きることができないのでしょうか。

それは私たちは妄想のなかに生きているからなのです。
妄想に支配されて、心は今の瞬間を生きることを忘れて、
過去や未来や別の場所に飛んでいってしまっているのです。



今の瞬間はぜったいにもう二度と戻ってこないのです。

それなのに、今ここに座っていても心はこの場所にいないのです。
朝、歯を磨いていても歯を磨いていることは習慣として本能の赴くままに任せて、
心では他のことを妄想しています。

会社に行ったらどうしょうか、今日は一日何をしようか、
今日は雨で出かけるのが億劫だな、などと妄想に耽っていませんか。

テレビを見ていても、心はテレビから離れて勝手に妄想世界を遊んでいます。
晩ごはんは何を食べようか、ご飯の前にお風呂に入ってしまおうか、
・・・・・・・・・・・・・

すべて妄想の世界に心が奪われているという証拠です。


「今の自分に気づく」というヴィパッサナー瞑想法は、私たちの最大の敵である
妄想と闘うためのもの、もっとも効果的ですぐれた方法なのです。



たとえば、手を伸ばすという行為だけでも、

気持ちよく明るくはっきりと

「私は手を伸ばします」と手を伸ばすと、心も身体も安らぎを感じます。

なぜなら、今自分がしていることを確認するという
このかんたんで単純な方法は、

「今を生きる」


といういちばん大切なことを教えてくれるからなのです。


ですから、きちんと自分の行為を確認する作業は、やればやるほど
自分が「今生きる」技を身につけることになるのです。





「頭が突然鋭くなる瞑想法」<P242〜P245>
A・スマナサーラ長老著書より抜粋いたしました


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タイトル (本文) ブログ名/日時
スマナサーラ長老の法話〜お洒落にかける人生
http://www.j-theravada.net/howa/howa64.html ...続きを見る

2011/02/10 17:04

コメント(114件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。

外の景色を見て一言です

カラスも幸せで、ありますように。です。

生きとし生けるものの幸せを祈る心は当たり前、

具体的に、増やしていくぞよ

今日はヴィーナスさんも幸せでありますようにです。

〜生きとし生けるものが、幸せでありますように〜

才木広之
2011/02/09 07:28
 才木さん。もはやオオカミ少年のレベルではないでしょうか?
 一つくらい、御自身が発言されたことを守られた方がよいでしょう。

 つまり、「私(ヴィーナス)を相手にしない」というご発言です。

 たばこも才木さんの弱みだと思うので、それを止めようという努力は素晴らしいことだと思いますが、不妄語戒はお釈迦さまの仰る五戒の一つですから、もう少し真剣に取り組まれた方がよいように思います。
 こちらの方がむしろ重要なのではないでしょうか?
ヴィーナス
2011/02/09 07:46
おはようございます。

今日の内容、耳にタコが出来るほど長老から伺っていますが、改めて自戒したいことです。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/09 08:20
智慧と慈悲さんのコメント、読むより観察!名言だな!
才木さんまた戻っちゃったねー
ちょっと見直しかけたんだけどなー
一日一コメントの戒律もう破っちゃった!
観察たのし
なお
2011/02/09 08:24
常に実況中継ですが、
"言葉が空回り"しないように気を付けたいですね。地橋氏は感覚が9割で、残りの1割に言葉を添える、というような事をおっしゃっていました。
ユウタ
2011/02/09 08:47
こころの統一こそ、幸せ。
仕事を成功するため、異性にモテるため、人気者になるため、病気を直すため、金持ちになるため。

これらの目的のために瞑想をするわけではありません。

目的はただひとつ、こころの統一。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/09 09:11
 「尋」で同じようなことを言っていても、「伺」で仰っていることは全く違うというようなことが、超一流と、二流三流の差としてあると思います。
 それが分るように昨日長文で述べました。
 
 仏陀の教えには、その差が、特にあると思います。

 なお、感覚9割、残り1割というのは地橋氏の言葉であって、スマナサーラ長老がそのようなことを仰られた記憶はありません。
 スマナサーラ長老の仰る趣旨は、ヴィパッサナー3条件(@スローモーション、A実況中継、B実感の変化を感じ取る)を全て10割行うということだと思います。
 
 それは数学的にはありえないことかもしれませんが、スマナサーラ長老の仰ることはそういうことだと、私は「伺」で理解しています。

 新さんはどう思われますか?
 
 私も何度も直接スマナサーラ長老の説法、瞑想指導を拝聴・体験していますが、新さまも、長くスマナサーラ長老の下で直接説法、瞑想指導を拝聴・体験しておられると思いますので、確認のために質問致しました。

 ※ 歩く瞑想の場合は、@の条件がないか、緩められていると思います。
 例えば、「歩く瞑想実践は、特別ゆっくりと歩く必要はありません。足の動きを感じやすいスピードで、自然に歩いて下さい」とスマナサーラ長老は仰っておられます。

(「ブッダの瞑想法は、こんなに簡単です。」改訂・新版99頁)

 これは日常における歩く瞑想の話ではなくて、集中瞑想の文脈(あるいは集中瞑想を含めた文脈)で仰っておられます。

 スマナサーラ長老が直接対面で一般的瞑想指導(いわゆる初心者瞑想指導)をされる場合にも、同じような指導をされたような記憶があります。
ヴィーナス
2011/02/09 09:20
【実況中継】で言葉が空回りというのは、良く耳にしますが、私は【正知】の不足があると思います。
【正念と正知】がセットであることは、スマナサーラ長老も『お釈迦様のお見舞い』で仰っています。
あくまで瞑想指導ではなく、個人的な見解です。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/09 09:42
 ただし、歩く瞑想だったと思いますが、「スローモーションでできるならその方がよい」というようなことをスマナサーラ長老が仰られた記憶もあります。
ヴィーナス
2011/02/09 09:46
ヴィーナスさん。

私はスマナサーラ長老の教えに忠実であらんことに心がけてます。

そこに矛盾を感じた場合、それは凡夫の浅智恵でしょう。多分。。

得てして、人は悪い無知な事柄に納得するように思います。

スマナサーラ長老は、ある法話会で「瞑想指導はやりたくないが、世界中の瞑想指導を観ると、誰も私のレベルで教えられないから教えているんだよ」という趣旨のことをおっしゃっられた記憶があります。

ここで、スマナサーラ長老が、常日頃、言葉の語尾に非常に注意されてること、特に断言的に話される時は膨大なデータをもとに話されていること。

また、普段東京にいらしておられながら、どうやって世界中の瞑想指導の実態を、データとしてご存知なのかを考慮して頂ければ、と思います。

2011/02/09 10:15
現象が先、言葉が後、と覚えておくと良いそうです。
ユウタ
2011/02/09 10:46
 「現象が先、言葉が後、と覚えておくと良いそうです。」
 これも、地橋氏の言葉でしょうか?スマナサーラ長老はこのようなことは仰っておられません。

 新さん。
 
 新さま。もう一度確認いたします。ヴィパッサナー3条件は、上記のとおり、@ABそれぞれ十割の力でやる(つまり、100%パーフェクトにしっかりと真剣にやる)、これがスマナサーラ長老が「伺」で仰っていることだと思います。この点、新さまはどう思われますか?
 個人的な思いで構いません。
 
 地橋氏が仰っておられるようなことはスマナサーラ長老は仰っておられないと思います。
 
 それを新さまは「伺」で私に伝えようとしているのはわかりますが、ここははっきりと書いておかないと、コメント欄を読んでいて、分らない人が続出すると思います。

(特に直接スマナサーラ長老の瞑想指導をあまり受けたことがない人にそういう人が多く出現すると思います)。
 
 新さまが答えにくいようでしたらこれで終わりにしますが。
ヴィーナス
2011/02/09 10:55
 ユウタさん。ユウタさんが地橋氏を師匠としているならば、私は何も言えませんが、スマナサーラ長老を上に置かれているならば、このようなスマナサーラ長老の説法があります。http://gotami.j-theravada.net/2008/04/kydhammacast.html

(引用開始)

 実況中継で、言葉を先に言う人は間違いが多いんです。焦っているんですね、観念で。

 言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。

 先に言葉で言ってしまう人は、まだ現われていない、事実でない、観念に拠ってしまっているのです。感覚を感じることは欠かせません。

(引用終わり)

 私は、このスマナサーラ長老の説法では、ヴィパッサナーにおける「最善の状態」は、「尋」ではなく「伺」で伝えられていると思います。

 つまり、実感の変化を感じ取ることと、実況中継は「同時」が最善であるということを、スマナサーラ長老は「伺」で伝えておられると思います。

 上の文章で、スマナサーラ長老は、「言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。」と述べておられます。
 
 これは表の意味としては、実感の変化に対し、言葉が前になるよりも後になる方がよいということです。

 しかし、裏の意味として、言葉が後になる場合も、「集中力はない」ということをスマナサーラ長老が仰っている以上、実感の変化に対し、言葉が前になる場合ばかりでなく、言葉が後になることも、ヴィパッサナーにおける最善の状態ではないということを「伺」で説いておられると思います。
ヴィーナス
2011/02/09 11:19
ごめんごめん、あまり期待しないでね、わたしのことは、

放っておくのがいちばんという、名言がありましたが

その通りだな―と読ませて頂いた記憶があります。

慈悲と智慧さまも、幸せでありますように。

〜生きとし生けるものは、幸せでありますように〜
才木広之
2011/02/09 12:33
あんさんへ。

このウェブリブログには、以下のような内容が乗ってました。

なお、無断で他者の著作物を掲載すると著作権侵害となり、民事上および刑事上の責任を問われることもございます為、他者著作物を公開いただく場合、著作者様へ問題が無いかどうかをお問い合わせくださいますようお願い申し上げます。

以上、

お知らせまでです

あん氏も幸せでありますように。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
才木広之
2011/02/09 12:54
ヴィーナスさん。

ご指摘された点については、そのように思い、そのように実践するように心がけてます。

意図的に後にすると、それは違うと思います。

そして、その百パーセントを百パーセントの精度の高さでやるように心がけるというのが、私の心がけという意味です。

2011/02/09 13:01
これは、あくまで個人的な意見ですが、結果的に言葉が後になる場合は、サティを入れる時、妄想、妄想概念がかなり混じるというか割り込んでいるというか、そんな気がします。

しかし、これはあくまでも個人的な意見なので、瞑想に対する疑問はスマナサーラ長老のような賢者に質問してみることを、私としてはオススメします。

2011/02/09 13:15
くどくなるので(くどくど書くと反感を買うだけのように思うからです)、私のコメントはこれまでにしますが、スマナサーラ長老は「仏教は心の科学」ということをよくおっしゃっられます。

これは個人的意見ですが、科学というのはあくまでも100%で科学です。同一の事柄を100%同一の方法で行えば、必ず100%同一の結果が得られる。

スマナサーラ長老のブッダ流の瞑想指導を100%の精度でやるように心がけるというのは、そのような意味があります。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/09 13:43
生きとし生けるものに覚りの光が表れますように。

生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/09 17:44
 新さま。どうもありがとうございます。

 以前に私が引用したスマナサーラ長老の説法を再引用します。 

 「無知のせいで、ブッダを侮辱して、『あ、なんか、あの先生、あの科学者、あの人が、言っていることがなんか仏教にも似ているんじゃないかとか、凄いや』とかいうと、ブッダを侮辱することになるんですからね。

 好き勝手に侮辱するんですけど、私はそういう人は捨てますよ。

 間違い観えても教えてあげない。」

(引用終わり。ダンマパダ46の経典解説、協会発行のDVD「悪魔の花矢の正体」36:42〜)  
ヴィーナス
2011/02/09 19:44
ヴィーナスさんは、賢いようなので、参考に訊きますが

スマナサーラ長老の、許諾があれば。全文本を、まる写しで、インターネットに乗せてもいいんではないでしょうか。僕はそう思いました。
才木広之
2011/02/09 19:59
返事がないようなので、わたしは法句経一日一話の、長老のことばを全文まる写しを決行いたします。
才木広之
2011/02/09 20:00
もう僕のことは放っておいてください。

迷惑をかけるといけないから放っておいてください

まる写しするけど、何も言わないでください。
才木広之
2011/02/09 20:02
 続きです。譬えですが、プロ棋士の羽生善治名人と町道場の先生では全く実力は違います。
 
 将棋のルールを知っている人ならば、一度将棋無双、将棋図巧を解いてみてください(「詰むや詰まざるや―将棋無双・将棋図巧 」(東洋文庫 282)平凡社)。
 
 町道場の先生レベルでは到底解けないことが推察できると思います。
 
 羽生名人は、米長棋士の述べるとおり、この将棋無双・将棋図巧を解いておられます。もちろん、米長棋士も解かれたわけです。

 そこには、町道場の先生とは、圧倒的な実力差があります。

 しかし、将棋を知らない人からすると、羽生名人と町道場の先生の差は容易には分りません。ですが、分る人はどうするでしょうか?
 
 羽生名人と町道場の先生を同列扱い、あるいは、あんまり差がないように扱っているのが分ったら。

 自然に慈しみの気持ちが湧いてきて、せっかく羽生名人に教わる機会があるんだから、町道場の先生の言うことなんか聴かずに、羽生名人に教わった方がいいよ、と言うと思います。

 そして、羽生名人と町道場の先生を同列に扱うのは、羽生名人にとても失礼であることを教えてあげると思います。

 なお、「羽生名人」は譬え(なぞなぞ)ですが、文脈によって意味は違いますので、パターン化、システム化しないで智慧で意味をとって頂ければと思います。
ヴィーナス
2011/02/09 20:03
僕はやっぱり、本に出会えたから、こうして今、がある訳で。本がなかったらスマナサーラ長老に出会えてなかったかもしれない。

日本テーラワーダ仏教協会のことが知りたくて、はじめて僕はインターネットを始めたから、やはり本がなくては、今の自分はない、出版社の方を差し置いて、引用するわけには、やっぱりいかない。正直に素直に相談するしかないな、出版社のお方に。聞けば駄目だというだろうけど、聞かなければ黙認もできようけど、聞けば黙認はできないし。あ――――――どうしたらいいどうしたらいい

あんさんは素晴らしい度胸の持ち主なんですね、

よいことを行うためには、自ら試みておられる。

才木広之
2011/02/09 20:15
いっぱい書きたくて書くけど、

お願いだからなにも返信しないでください。

ただ、叫びたかっただけですから。

ごめんごめん、みなさんごめん。
才木広之
2011/02/09 20:19
ユウタサンも、幸せでありますように。

かずみさんも、幸せでありますように。

なおさんも、幸せでありますように。

新さんも、幸せでありますように。

368さんも、幸せでありますように。

ブログの読者さま皆さまが幸せでありますように。

皆さんの親しい人々が幸せでありますように

皆さんにとっての、生きとし生けるものが、幸せでありますように

よろず、生きとし生けるものが、幸福で、安穏であられますように
才木広之
2011/02/09 20:23
あんさんには反対されるでしょうけども、私は才木さんについては投稿制限した方が本人や回りの方々のためだと思います。

彼はある種、このブログのコメント欄に書くことで生まれる刺激の依存性だと思います。

そして彼には、どこか自分を誰か止めてもらいたいという気持ちもあるのではないかとも思います。

慈しみは決して馴れ合いではないと思います。
彼を制限することが慈しみに欠けるというのは私は違うと思います。

生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように。
慈悲と知慧
2011/02/09 20:31
ようし初心に戻り、寄贈作戦の続きを始めよう

もう各地には、小学校やお寺には、結構寄贈した(黙って置いて来た(笑)。

よし買いためて、歩兵部隊でスタートだ、地道に地道に根付くように、演歌歌手の地方巡業パクリ作戦の、再出発だ。

うんうん、お寺、バス停、先生の靴箱、図書館、百冊も布施の行為をしたではないか。なんで続けないんだわたしは。怠けはいかんだろう。地道に。地道に、歩兵部隊のように、着実に、根付かせて見せるぞ、法句経一日一話。いっぺん読めば、もう逃げ道なくなるから、とにかく、冗談でも、いっぺん読んでくれさえすればいいんだ、

やるぞ、やるぞ、これからも、僕は地道に行くんだい。

才木広之
2011/02/09 20:42
はい、わたしにとって、投稿制限は、最大の意思表示であり。それができる人は、慈しみの深い人でなくてはできません

もうここだけですから、自由に投稿できるところは。

どうぞ、投稿制限よろしくお願いします
才木広之
2011/02/09 20:45
才木さんの悩み苦しみが無くなりますように

才木さんが幸せでありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/02/09 20:51
あっつマーヤ―デーヴィー精舎さんが、あった。

そろそろ、いつもの時間です

死にぞこないが、ブログにてコメントしてる

何にも自己表現できず、死ぬつもりが、生き残ってしまった。それから法句経一日一話、スマナサーラ長老に出会った。

自分だけが天にも昇る気持ちのように、嬉しいだけで。

周りには迷惑ばかりかけてるようだ。自分法句経一日一話〜スマナサーラ長老に出会えてよかった。

周りの人には迷惑ばかりかけている

客観的に見て、あの時死んでたほうがよかったのか、それとも生きてて良かったのか解らなくなってきた。

嬉しくて、自己表現だけはめいいっぱいしてるんだけど

うまいこといかないな〜。

まー死ぬのぐらいは、いつでもできるさ。
才木広之
2011/02/09 20:54
才木さんのコメントが書かれていると、「あ、良かった、まだ死なずに生きておられた」って、そういう風に書き込みを見る感じになってきてしまいました、最近。
「死ぬ」とかそういう事しょっちゅう書かれるでしょ?
そういうの、あんまり良くないと思います、私。

才気さん、ちょっと考えてもらえませんか?
かずみ
2011/02/09 21:18
くどいようですが、これ以上、才木さんに悪業を積んでほしくないし、他の人のこころが汚れるなら、制限した方が良いとは思いますけどね。

皆様から、反対されるのは覚悟で書いています。
慈悲と知慧
2011/02/09 22:56
 慈悲と智慧様。

 譬えですが、トップレベルにいる人は、いわばエベレストの頂上にいるような方ですね。
 すると、下界の平野部にいる人も、ちょっとした山に登った人も、富士山クラスの山に登った人も、同じように観えるでしょう。つまり、小さな点のように観えるでしょう。
 大した差はない。

 小さな山に登った人が、平野部の人を観て、色々不満を持つのではないでしょうか。あるいは、山に登っていない人が同じく山に登っていない人に不満を持つのかもしれません。

 まず、意識的に自分をトップレベルに仮定的に置いてみることをお勧めしたいと思います。

 それでも、まだ才木さんの投稿制限が慈悲であると思うならば、それは慈悲と智慧さまにとっての慈悲なのだと思います。

 私の場合は、才木さんの投稿は、要は赤ちゃんみたいな感じで、あんまり概念がないのだなという感じでみています。ころころ変わる。かわいらしい感じですね。
 
 だから、全然気になっていません。しつこくて、迷惑なことはありましたけど。きちんと言えば、引きさがって下さいましたから。
  
 しかし、嘘はよくないから、嘘はつかないように、何か宣言する場合に注意は必要だと思いますけど。

 嘘をつかないという戒律を守ると、(自分の)発言に注意するようになり、智慧が磨かれるというような趣旨のことをスマナサーラ長老が仰っておられたように思います(ただし、記憶不鮮明)。

 お釈迦様は菩薩時代(お釈迦さまの前世時代)から嘘だけはつかれなかったという話もあったと思います。
ヴィーナス
2011/02/10 00:08
ヴィーナス様

私も才木さんも賢者から見たら同じレベルかもしれないですね。

唯、彼自身もやめたくてもやめらなくなってるんじゃないかというのというのと、せっかく、彼も仏教を知ったのだから、あんまり、悪業を積むのもね。
ここのブログ以外のコメントは、今はそこまで酷くないみたいだし。

慈悲と知慧
2011/02/10 00:51
ここのブログ以外は、マーヤ―デーヴィ精舎もですけど、先方の管理人さまが判断して、公開か、非公開かを決めてくださるので、すぐに、分かってきます。「このような書き方だと、公開されるんだな」とすぐに、よめて、きます。だから自分自身無駄な浪費をすることはないですね。

はっきり言って、どのような内容が、人のためになるのか分からないんです、このブログでは。

結構私がいるために、皆さんは、仲良くなれてきているようにも思うし。だったらそろそろ手を引くか、という気もあるし、しかしいざ手を引こうとすると、やはり、情ができてしまうんですね、多少なりとも、

それもはじめから、分かって飛び込んだので、なんとかしなければいけないんですが

本来の目的は、わたしが、そのままのことばを書いていくことによって、皆様も、つられてそのままの気持ちをどうしても書くようになることは知ってますから。そこが狙いだともいえます。がしかし、その後の自分の後始末にも結構苦労はつきものなことも知ってます。それも分かって会えて投稿しようとはじめてはおります

ちょうど大人が難しそうな話をしてても、【全然難しくない内容なんだけども気の使い合いで、話が進まない時】子供がいると、結構話が進むんです。子供は素直ですからね。

もうそろそろ、しっかりとした自分に戻るとしますか
才木広之
2011/02/10 03:36
慈悲と智慧さまへ。

前に、感情的な発言が多いので、しばらくは来ないといってましたけど、撤回の発言がないんですけど

不もう語戒に反してますよ。
才木広之
2011/02/10 03:38
ヴィーナスさんへ。

なおさんから、自閉症の関係の発言の時に、精神病とか言いましたよね。

仏教では、すべての人は心の病気でしょう。

自閉症なんてあんなもの程度の差があるだけで、だれでも当てはまりますよ。本当に誰にでも、ただ程度の差が書いてあるだけで。

わたしは、自閉症の症状のブログを見て、素晴らしい記事だと思いましたよ、だれでも気をつけなければいけないことばかりが書いてあるんですから。

誰が見ても参考になると思いましたよ

参考にならない、関係ない、わたしは正常だと思ってる人が、実は危ないんですよ。そうあなたは危ないんですよ

過去にも、おんがえしでも、ご紹介でもない、ヴィーナスさんへ。
才木広之
2011/02/10 03:44
まーそんなとこです

後の方は、まー普通の人ばかりです
才木広之
2011/02/10 03:46
やっぱりもう少しいじめておいたほうがいいかな

恩返しさんと言う人は、本当に中途半端な人でした。

かなり一生懸命に、しているのかと思えば、どこかにいなくなってし舞う。さっぱり顔を見せなくなってします。人が心配してようが、いまいが、お構いなしに、消えてしまう、そんな人を誰が信用しますか

恩返しさんと言う人が、投稿しないで、自分の名前が出るのを見て、にやにやして観てるかもしれませんが。

あそこまで協会掲示板でも、困った時はダンマパダでも、いたるところで発言しておきながら。いなくなる、

結局中途半端な、一生懸命ではない、ちゃらんぽらんの人間だというのが、わたしの感想です。
才木広之
2011/02/10 03:57
面倒だというと、失礼にあたるかもしれないですが、

御紹介さんには、失礼にあたると思うんですが。

恩返しさんと全く同じような方が、ご紹介さんなんです

ですから、恩返しさんと、そっくりなのがご紹介さんなんです
才木広之
2011/02/10 03:59
それから失礼の2乗にあたりますが。

恩返しさんと、ご紹介さんと、全くような人が、ヴィーナスさんなんです

ヴィーナスさん申し訳ありません

おんがえしさん、ご紹介さん、ヴィーナスさん

が全く同じような感じの人でしたので、わたしは同じ人だと想像しました。

けど3人とも全く違う親を持って生れた、人たちなんですね

才木広之
2011/02/10 04:03
朝5時からお経慈悲の冥想ヴィパッサナー冥想、がありますので、失礼します

お釈迦さまへのお食事の準備です。

掲示板管理者様、使わせて頂きありがとうございます

先日は、思わぬ御馳走を頂き、戸惑ってしまいましたが。嬉しかったです。布施する心に出会えるのがいちばん嬉しいです。

ここに集いし方々がお一人、お一人が

幸せでありますように〜

〜生きとし生けるものが、幸せでありますようにと〜
才木広之
2011/02/10 04:11
 才木さんの文章を読まれて誤解する人がいるかもしれないので、コメントしますが、私が述べたのは、「他人を精神病扱いするのはよくないと思う」という話です。
 
 才木さんのコメントで埋もれましたが、この点に少し関連するので引用します(00:08の私のコメント)。

 譬えですが、トップレベルにいる人は、いわばエベレストの頂上にいるような方ですね。
 すると、下界の平野部にいる人も、ちょっとした山に登った人も、富士山クラスの山に登った人も、同じように観えるでしょう。つまり、小さな点のように観えるでしょう。
 大した差はない。

 小さな山に登った人が、平野部の人を観て、色々不満を持つのではないでしょうか。あるいは、山に登っていない人が同じく山に登っていない人に不満を持つのかもしれません。

 まず、意識的に自分をトップレベルに仮定的に置いてみることをお勧めしたいと思います。
(引用終わり)

 トップレベルの人から見たら、普通の人も精神病の人も点に観えると思います。差別するのは平野部にいる人、小さな山に上った人だと思います。

 否、精神病の方でも能力の高い人はおられます。エベレストに登ったとは言えませんが。

 だから、そもそも精神病と健常者というくくりをなくした方がよいように思います。

 仏教で大切なのは、貪瞋痴があるかないかだと思います。
ヴィーナス
2011/02/10 07:38
あんさん

暫くコメント欄は休業で良いと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/10 07:46
慈悲と知慧さんに同感です。
かずみ
2011/02/10 08:05
 仏教で大切なのは、貪瞋痴があるかないかだと思います。とのヴィーナスさんご自身に対して、人文が自分に対していってることばなのか、他に対していってることばなのか、それとも両方なのか

誰に対しての発言か、明確にしたほうがよいということを言われたと思いますので、それをとおしてみてはいかがでしょうか。
才木広之
2011/02/10 12:29
慈悲と暫くコメント欄は休業で良いと思います。ということでしたら、自分がコメントしなければいいのに、前にそう言ってたのに、分からんです
才木広之
2011/02/10 12:31
暫くコメント欄は休業で良いと思います。という人が、コメントしてること事態矛盾してて、意味分からんです

才木広之
2011/02/10 12:34
コメントしたくても、できない人がいるってことじゃないんですか

わたしたちの厚い壁があるために。

それに気づいてはいかがでしょうか

わたしは、全然自分自身に対して邪魔になってないと思います。その他の方々が、厚い壁になって、邪魔になってると思います。
才木広之
2011/02/10 12:36
現にここにコメントしてる人だけでしょう
わたしが邪魔だよ感じてるのは、コメントしない人の意見はあなた方コメントしてる人は、無視してるわけでしょう

難しい話が多いですよ。皆さんコメントしてる方の多くは

ご紹介の本は、素人でも手にして読める本が、ほとんどでしょう

だったらあなた方は、買う人を見張って置いて、【誤った受け取りようをするかもしれないので、御説明せてください】というんですか。

せっかくわかりやすい本を、公開されているんだから、それに合わせたコメントでいいんじゃないですか

解らんもんには解らんと、このコメントしてる多くの方に言います。いえ指名します

ヴィーナスさんです。
才木広之
2011/02/10 12:40
明日明後日と、会社の旅行でいません、幹事ですので、わたしがいないとはじまりませんので、かならず行く思いです。

ですから、明日からはコメントできませんので、書きたいことがあれば、わたしのぶろぐにかいておいたらいいと思います。

やっぱり人の目を気にした発言が多いと目立ちます

一対一で話せば、全然違うこといううんだろうな、というのが、ヴィーナスさんへの感想です

ただわたしの感想を書いてるだけで、ヴィーナスさんを相手にしてる訳ではないので、たびたび自分で勘違いをされているように感じますので

わたしはヴィーナスさんを相手にしてるのではなく、自分自身の思いを書いてるだけで。

ヴィーナスさんが私が、あなたを相手にしてると感じてるだけで、わたしとしては、ヴィーナスさんは相手にしてません

服についた汚れが、たまに目について、感想を言うようなものです「あっつ汚れてる」と感想を書くだけで、相手にはしませんから一生です
才木広之
2011/02/10 12:46
ここにコメントされる方は、一部の人間では、本人を知ってる方もおられましょうが、その他大勢には、誰がしゃべってるのか分からないので、その点は安心ですね、

わたしは、地域の人から、精舎の人から、会社の人まで、才木広之という名前で、検索すれば、すぐにわかるのですから、嘘を書くはずがないでしょう

皆さんは、気楽なものです、ほとんどの方に、本人確認はされない訳ですから

本名で、投稿すると、たぶん僕の思いでは、全然違ったことばになるのだろうなと感じていて、あんまり、真剣に向き合う気がしないのも事実です

頑張ってやって下さいな、自分の思う仏教を
才木広之
2011/02/10 12:57
 才木さんが誤解をまねく発言をされているので一言。
 
 「これ以上、自己主張の激しい感情的な書き込みが増えるのなら、こころが汚れるだけなので、毎日続けてきたコメントもやめようと思います。
 これ以上、感情でこのブログを汚さないで欲しい。この貴重なブログを汚さないで欲しい。切に願います。」
 
 と仰ったのは、私ではなく、慈悲と智慧さまです(2011/01/30 22:37 http://77713696.at.webry.info/201101/article_32.html)。

 これは、才木さんのコメントを批判する趣旨でしょう。おそらく。

 慈悲と智慧さまが、私を批判していないことは、2011/02/01 19:59で慈悲と智慧さまが仰っておられます。

 人それぞれいろんな意見があっていいんじゃないでしょうか。
ヴィーナス
2011/02/10 14:08
 スマナサーラ長老は、このように仰っておられます。

(引用開始)

  戒律の問題は、殺生に限らずややこしい疑問がでてくるものです。不妄語戒について。現代の日本では嘘をつかずにいきていけます。では第二次世界大戦の時のドイツだったら?ナチスがユダヤ人を狩って収容所で殺す。

 ドイツ人が地下室にユダヤ人をかくまう。ナチスから尋問されたら、正直に「はい、ユダヤ人を何人匿っていますよ」と言う?

 堂々と嘘をついて、ユダヤ人を守るでしょう。それが罪になる?それは人の命を守ることでしょう。そんな簡単に判断できることではない。

 医者が患者を治すために体内の虫を殺したと。それで悩んで治療をしなかったら、医者は仕事ができなくなる

 戒律について、項目ごとにひっかかって、人間の現実の不幸を無視したら、それは戒禁取になってしまう。邪見になる。善悪についても形式的にみると邪見になる。…中略…

 形式的に正しく生きようとしないほうがいい。しかし、悪人にはならないように。どんどんよい人間になるように。

 それから心を汚さないように。戦うべき時は戦うとしても、怒りでは戦わない。心汚れないように気をつけることがお釈迦様の答えなんですね。

 ちょくちょくやっている罪は気にしなくていいが、常習犯になったらいけない。常習犯になったら心が汚れています。常習犯はよくないんです。

(引用終わり)http://twilog.org/naagita/date-110123
ヴィーナス
2011/02/10 14:43
ブログをご覧の皆様
現在、あんさんのブログのコメント欄が休業中ですので、もし、引き続きお釈迦様の仏教の関する事について話し合う場所を希望でしたら、宜しければですが、私のブログhttp://ameblo.jp/jihitotie/のコメントをお使いになって下さい。
但し、私の場合は、私の主観により削除、投稿制限、これを書いている今現在承認制ではありませんが、承認制への移行などを行いますので、その点了解お願いいたします。削除や制限の理由などもお答えは致しません。
また、投稿する際は、多重投稿になると、見づらかったり、読み落としがあるので要領良く手短にお願いいたします。
では。
慈悲と智慧
2011/02/10 17:25
補足
上で紹介したのは特に私のブログのコメント欄がふさわしいという意味ではありません。コミュニティースペースとしては、協会の掲示板、ぱんさんのブログ、ツイッター等他にも色々ありますので、あくまで私のブログのコメント欄でも構わないという方はマナーを守った上でご利用になって下さい。
http://ameblo.jp/jihitotie/
あるいは、【ネット検索で慈悲と智慧のブログ】
慈悲と智慧
2011/02/10 17:36
どのような事情にしろ、いったん相手に口にしたことを、変更する場合は、その旨を伝えてから、新たに投稿する、というのが、ルールです。

それならわたしは何にも言いません、誰か人のせいには、出来ないんですよ、自分が口にした言葉を、訂正する場合には、きちっと伝えたほうがいいですよ、といってるんです

社会生活してるんですか、慈悲と智慧さまは。

たぶんしてないから分からないんだろうと思います

すべてその時の、予定といった感じが、社会生活ですよ
仕事に手をつけた時が、始まりで、それまでは、全て予定なんですよ

だから、そのつど、連絡や、報告などが必要なのですよ
それがないから、いけないといってるんです。
才木広之
2011/02/10 20:00
わたしがいったことは、よく覚えておいたほうがいいですよ、社会生活を送る上では、手をつけるまでは、いつでも予定なのだと、手をつけた事柄だけが、事実なんだと、知っておかなければ、社会生活はできません。

当初の予定と変わったからって、

いちいち見え見えの、いい訳や、

ごまかしや、

人のせいにすることをしようとする人がいますが、

上の人から見れば、隠し事に見えるんですよ、

だからそんな人は、いつまでたっても成長できないんです

わたしはいまでもいいますよ。「本当にわたしは駄目だなと思います、またこんな失敗をしました」という風な報告を、たまにします。
才木広之
2011/02/10 20:05
ヴィーナスさんのスマナサーラさんのことばも

心のことを言ってるんでしょう。

僕は賢いから、嘘は言いませんよ

相手がつらかろうが、言いたく無かろうが

人のことだったら、とにかく事前にでも、確かめておきます

収容所の話しみたいですがよく内容は把握できませんが僕、だったら本人に訊きますね。「いないっていうほうがいいですか」「それともいるっていったほうがいいですか」と聞きますね事前にでも。賢くないとできないけどね。察知する能力が事前に要りますから。

病院でしたら、患者さんに言いますね、僕なら自分が殺したくないなら、せめて本人に虫を殺しますけど、いいですかと聞きますね。
才木広之
2011/02/10 20:11
皆さんわたしのコメントに返信はないんですか。

この際だから一手に引き受けますよ

思ったこと、書いてきたらいいじゃないですか

頭でどう返答したらいいのかなんて考えなくて

どうせ屑で、ゴミみたいな頭なんでしょう

才木広之
2011/02/10 20:14
九時からはなにがあっても

お経、慈悲の冥想、ヴィパッサナー冥想はじめますので

時間制限なしだから、次に返信するかは、いつか分からないですよ

こんなことで時間を取るのは、もったいないでしょう、

だけど気になるんでしょう、だったら早く書いて、終わらしたほうが、いいでしょう。

時間をかけて、この屑で、汚物で、ゴミみたいな頭で考えて書いたって、結果は大して変わらないと思うよ

だったら早くコメント書いて、終わらしたほうがいいでしょう

「あー失敗した」と早くに思ったほうがいいでしょう

どうせ時間をかけても「あー失敗した」と同じ結果になるんですからね。

才木広之
2011/02/10 20:18
ろくでもない。大したことはない。よく間違いをする」

これが大正解なんですから。
才木広之
2011/02/10 20:19
では九時まで、待ちます。コメントなければ。僕はすっきりしたので。この話は終わりです。
才木広之
2011/02/10 20:20
かずみさん、早速のご訪問ありがとうございます。

皆様

この記事のトラックバックから私のブログへ行けます。

あんさん

もし、可能ならトラックバックだけ解放していただけたらと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/10 20:21
よその掲示板に来て、わたしの掲示板へどうぞ

書く人の気がしれません

なに考えてるやら

わたしは自分に言いたいことがあれば、自分の掲示板に来ればい言う、聞いてやる、といってるわけで

ここの掲示板よりこちらの掲示板のほうがいいですよ、と、よそに来て書く。。・・慈悲と智慧・・さまが、何を考えての行動か、さっぱりわかりません。
才木広之
2011/02/10 20:30
あんさんの会社に来て

その会社で堂々と、「慈悲と智慧の会社へどうぞ」。

なんて人いないでしょう

個人的に、社員をよく知っていて、ひき抜きなら分かりますが

人の会社に赴いて、皆様、わたしの会社に来てはどうですかという人の気がしれんです

やはりニックネームで、本人が判別できないから、このような、気楽な、能天気なことを書けるんだと思います
才木広之
2011/02/10 20:35
あんさんにも一言申し上げます

本があるから、はじめてあなたが読める訳でしょう

そしてこうして書ける訳でしょう。もっと真剣真面目になって僕の言ってることを想像したり、してごらん

「本があるから、はじめてあなたが読める訳でしょう」

ということを復唱して、想像してごらん、念じて御覧

絶対に以下のような書き方にはならないんですよ。
以下

A・スマナサーラ長老著書より抜粋いたしました

との発言は、断言的にならないんです

僕の言ってることが実感できてるなら

実感できてないから、そのような書き方になるんです

本当に気づいていたら、

A・スマナサーラ長老著書より抜粋させていただきました。とせめてそのような書き方になるんです。


自分が、抜粋して、書きましたといってるんでしょう

もっと考えないといかんよ。

本があって、はじめて、写して、書けるんですよ

そこには人が携わってるんですよ

あなたが抜粋するために、あなたのために、その本を作ったのではないのですよ

あなたの書き方だと、あなたの心は

自分中心に、世の中が回っていると思っているんです

あんさんは自分中心に世の中が回っていると思ってるんです

でなければ、思考しなくとも、自然と

抜粋させていただきました、となるんですよ。

そうならないのは、自分中心に世の中が回っているというあなたの心があるからです。

抜粋するために本を作ったんじゃない

一人ひとりに、読んで頂くために、本は作られたのです

法律以前の問題です

才木広之
2011/02/10 20:52
九時までに投稿があったものに対しては、時間を後送りにしても対応しますが、九時過ぎてからのコメントには対応できません
才木広之
2011/02/10 20:56
あんさん、みなさんお一人お一人、有り難う

これですっきり、

お経、慈悲の冥想、ヴィパッサナー冥想にはいれます

あなたが他、お一人お一人も、生きとし生ける物の一部分です
わたしも、生きとし生ける物の一部分です

〜生きとし生けるものは、幸せでありますように〜
才木広之
2011/02/10 21:02
 「幸い」(ハンドルネーム)という人が、「ご紹介」(ハンドルネーム)に、スマナサーラ長老が説法されたDVD、本を紹介してほしいというような質問をしています。

 析空様のブログ、http://budda.at.webry.info/201008/article_1.htmlの「2010/09/18 10:42のコメント」です。

 「ご紹介」は、その後、幾つかのスマナサーラ長老のDVD、本を紹介しています。

 その中で、「私がもっとも大切にしている一冊をご紹介します。無人島に持っていくならばこの一冊です。
 それは、『頭が突然鋭くなる瞑想法』(スタープレス社ないしEGDE社)です。」

 と述べています(2010/09/20 00:46のコメント)。

 これまで、あんさまが、こちらのブログ本文記事で紹介されてきた引用部分と、かなりかぶる部分がそちらのブログでも紹介されています(コメント欄で)。
 
 途中、他の方との会話なども入っていますので多少読みにくいのですが、あんさまがこちらのブログで、紹介していない部分として、歩く冥想の効用の部分などがあります。

 その他のスマナサーラ長老のDVD、本の紹介もありますので、読まれては如何かと思います。

 なお、特に才木さんにコメントしたわけではなく、こちらのコメント欄を読む方全員に紹介しています。
ヴィーナス
2011/02/11 06:32
慈悲と智慧さまの、ことですが、

この方のニックネームには、さまをわたしは毎回つけてますが

持ち上げてるのでも、尊敬してるのでもありません

本当はさんでも、くんでもいいんですが

慈悲と智慧。なんて言葉を自分のニックネームにすること事態、けしからんです。ブログだからそんなニックネームをつけられるだけでしょう

たとえば芸名だとか、書道の先生のような名前で、

あなたが、わたしの仏教徒としての名前は慈悲と智慧ですとか、普段生活の中で慈悲と智慧さまと呼ばれたらどう思いますか、要するに面と向かって、慈悲と智慧さまとよ呼ばれたらたらどう思いますか、面と向かって人に慈悲と智慧ですって呼ばれたいですか。

ブログだから、なにをしても、みなさんいい加減なんです。もう名前からして、いい加減ですから。

才木広之
2011/02/11 06:40
では時間ですので、皆さん仏教ごとのお遊び、楽しんでくださいね【ままごと→仏教ごと】適当でいいでしょう、ままごとはね、ままごとして遊んでるのに、横から才木広之が、真剣になって、まじめなことを言っても、しらけるだけでしょう、

皆さんテキトーに楽しんでる自分がいることにとに、気づいてはいるんだけど、確認してないだけで、逃げているんですね

今日のご紹介の記事のよう

ままごとに茶々を入れるのは楽しいけど、一緒に遊ぶ気にはなれないね。
才木広之
2011/02/11 06:46
 続きです。

 http://budda.at.webry.info/201008/article_1.htmlにおいて、「ご紹介」(ハンドルネーム)が、スマナサーラ長老のご著書、DVD、テープなどを紹介しているのは、2010/09/18 17:04 以降のコメントになります。
ヴィーナス
2011/02/11 07:06
あんさん

トラックバックの件ありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/02/11 10:38
 例えば、私は、ブッダのヴィパッサナーを実践する際に、「頭が突然鋭くなる瞑想法」(EGDE又はスタープレス社)のおける、次のスマナサーラ長老の説法に、何度励まされたか分りません。

 (引用開始)

 妄想を確認する度に、私たちの心は何かを習うのです。何かを学ぶのです。

 何を学んでどう上達したのかということは、よく分らないかもしれません。

 それはピアノの稽古と同じことなのです。

 ピアノを練習すると、確実に上達しますが、どこがどう上手になったかと聞かれても、はっきりとはわかりません。身体のなかに変化が起ったわけでもなく、ただ上達したという事実だけがあるのです。

(引用終わり)

 あんさまのブログ本文記事では紙面の都合だと思いますが、この部分が中略されています。上記URLにおける「ご紹介」の引用文章では、この部分が紹介されています。

 私は、母親がピアノの先生をやっていたことがあり、また、妹も前に絶対音感を持っているという話をしましたが、音楽の先生をしています。

 私は、ピアノは大して弾けませんが(ですが少し記憶を喚起すれば楽譜は読めると思いますので、素人に毛が生えた程度には弾けると思います)、自分自身も奏でることができる楽器があります。

 ちなみに、母親には絶対音感はありませんが、相対音感はあります。私は分りませんが、小学校2、3年生くらいまではピアノをやっていたので、相対音感はひょっとしたらあるかもしれません。

 なので、スマナサーラ長老の譬えがピンとくるというのもありますが、多くの方に、ヴィパッサナーにくじけそうなときに役立つ譬えではないかと思います。

 なお、自慢話がしたいわけではなく、なぞなぞですのでその点御理解ください。
ヴィーナス
2011/02/11 11:27
(相対音感の続き1)

 「相対音感」というのは、こういう能力です。

(引用開始)

 「相対音感」とはどんなものかというと、音感を温度で例えると、家の中から外へ出た時にもし「肌寒い」と感じれば、外の温度は部屋よりも低いことになります。

 逆に「蒸し暑い」と感じれば、外の温度は部屋よりも高いことになります。

 これと同じように「直前に聞いた音」より「次の音」が高いか低いかを感じる音感です。

 この音感を鍛えていくと、単に高い、低いだけではなく、具体的にどれくらい高いか低いかが分かるようになります。

 例えば「ド」の音を聞いた後に「レ」の音を聞いたとすると「鍵盤1つ分高い音」だと分かります。

 更には耳から聞いたメロディや思い浮かんだメロディを楽譜に書いたり(採譜、耳コピー)、携帯電話の着メロとして打ち込むこともできます。

(引用終わり)http://www.geocities.co.jp/MusicHall/1023/onkan.html

 ですから、「相対音感」は、低いレベルならば、ほとんど誰でも持っている能力なのです。

 しかし、私が想定している「相対音感」は、上の引用文章でいえば、「例えば『ド』の音を聞いた後に『レ』の音を聞いたとすると『鍵盤1つ分高い音』だと分かります。」というレベル以上です。

 ただ、耳から聞いた、あるいは、思い浮かんだメロディを携帯電話の着メロとして打ち込むことができるというのは、「絶対音感」に近いハイレベルな状態だと思います。
ヴィーナス
2011/02/11 12:16
なおさん。
このコメント欄はもう見てないかもしれませんが、見ていたらと思って書きます。

観察試していただけたようですね。

なおさんが、今後も観察を通して、仏教的に楽しい人生を送れますように☆

生きとし生けるものが幸せでありますように。

慈悲と知慧
2011/02/11 12:57
(相対音感の続き2)

 それで、「絶対音感を持つ」と言われる音楽家の筆頭がヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。

 しかし、近年は、絶対音感を持っていなかったと言う人もいます。

 当時は、今とはピッチが違うし、地方によっても違うので、絶対音感を持っていると障害になるというのが理由のようです。

 モーツァルトのころは、現在とはピッチが違って、音が半音程度低くなるそうです。

 ですから、今皆さんが聴いているモーツァルトの音楽はモーツァルトの時代に演奏されていたものとはだいぶ違って聞こえる可能性があります。

 絶対音感を持つ人は特定のピッチにしか対応できないので、モーツァルトには絶対音感はないと主張する人もいるわけです。

 モーツァルトに絶対音感があると主張する人は、「14歳の頃、二度聴いただけの門外不出のグレゴリオ・アレグリの《ミゼレーレ》を正確に楽譜に書き起こしたこと」などを根拠としています(Wikipediaの絶対音感の項目)。

 ブログだと、二度ではなく、一度聴いただけと書いている人もいます。

 そして、このアレグリ作の九声合唱曲『ミゼーレ』は、「九声」なわけです。
 絶対音感がない人に「九声」を1回か2回だけ聴いただけで、聴き分けて、門外不出の音楽を楽譜に残すことができるのか、ということを主張しているわけです。

 私が思うに、モーツァルトは、音楽史における大天才なのです。超トップレベルです。

 絶対音感には、町の音楽教室の先生レベルの絶対音感しかないという前提で、超トップレベルのモーツァルトを理解しようとするから、モーツァルトに絶対音感はないなどというおかしな話が出てくるのだと思います。

 モーツァルトは、町教室の先生レベルではない「超」絶対音感を持っていたというべきだと思います。
ヴィーナス
2011/02/11 13:00
(相対音感の続き3)

 阿羅漢聖者は、阿羅漢聖者がどなたか分ると思います。

 スマナサーラ長老は、http://www.j-theravada.net/qa/qahp25.htmlにおいて、「同じレベルの人々は互いによく知っています。」と仰っています。

 譬えですが、「絶対音感」がお有りなわけです(直前のコメントで述べた「超」絶対音感に譬えた方が適切なのですが、ここでは、次の「相対音感」の譬えにポイントがあるので、ここでは「絶対音感」に譬えます)。

 では、例えば預流果の人は、阿羅漢聖者がどなたか分らないのでしょうか?

 思うに、預流果の人は、自分を基準にして、阿羅漢聖者がどなたか推察できると思います。

 つまり、譬えですが、「相対音感」です。

 先に述べましたが、「相対音感」を持つ人は、例えば、「ド」の音を聞いた後に「レ」の音を聞いたとすると「鍵盤1つ分高い音」だと分かるのでした。

 預流果は、自分を基準にして、3段階上の阿羅漢聖者がどなたであるか、高度に推測できると思います。

 (といっても「ド」と「ファ」の関係のように単純に音程が3つ上なのとは異なり、阿羅漢聖者は、預流果に比べて、遥かに遥かにレベルは高いですが。)

 しかも、その「相対音感」は、預流果にも悟っていない凡夫に比べて遥かに精度の高い、凡夫とは質が異なる、『超ハイレベルな』「相対音感」だと思います。
ヴィーナス
2011/02/11 14:08
 ぱんさんのブログにコメントしました。http://alcedo-atthis.at.webry.info/201102/article_1.html
ヴィーナス
2011/02/11 15:05
あんさん

今日の記事ではトラックバック反映されないみたいです。
なにかブロックがかかっているようです。
時間があるときに確認お願いします。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/02/11 17:40
あんさん
ありがとうございます。反映されました。
慈悲と智慧
2011/02/11 18:13
観察するって実生活でも役立ちますね。腹の立つことが少なくなったような。。。
仏教って真実だなーすごいなーと思いつつあった今日この頃ですが、凄まじい嵐のようなコメントの応酬にびっくり。
仏教をこんなに深く学んでんのに???これってマジ???正気の沙汰とは思えない。
才木さんの着地点ってどこなんだろ。。。。
コメント休業は残念ですけど、仏教に触れる良い機会でした。ありがとうございました
なお
2011/02/11 20:43
 必要なので、私のコメントを再引用します。

(引用開始)

 今、スマナサーラ長老の能力と、Xという人物の能力を同じくらいと思っている人が沢山いるとします。

 そして、スマナサーラ長老の説かれる仏陀の教えとXの説く教えが同じ(又は似ている)と思っている人がいるとします。

 数式に単純化すれば、「スマナサーラ長老=X」です。

 ここにYという人物が現れました。Yは、スマナサーラ長老が圧倒的に自分よりも能力があり、超越した智慧をお持ちであることを認めています。
 Yの能力を1とすれば、スマナサーラ長老の能力は無限大です。

 これを単純に数式化すれば、

 (スマナサーラ長老=∞) > (Y=1)

となります。

 ところが、Yの文章を読んでみるとなかなか能力がある。
 
 Xと対等、もしくは、Xよりも能力は上かもしれないと多くの人は思うようになってきました。

 これを数式にすれば、

 Y≧X

 となります。

 すると、(スマナサーラ長老=∞) > (Y=1)ですから、
 
 (スマナサーラ長老=∞)> (Y=1) ≧ X(1以下)

 となります。

 結局、

 (スマナサーラ長老=∞)> X(1以下)

 が証明されることになります。

(引用終わり。http://77713696.at.webry.info/201102/article_1.html)
ヴィーナス
2011/02/12 09:06
(X(1以下)の続き1)

 Xとは、つまりは、オレオレ聖者のことです。

 大相撲界における八百長問題など、このオレオレ聖者問題に比べればちっぽけな問題だと思います。
 オレオレ聖者は、多くの方の解脱の道を閉ざすからです。
 
 才木さんの問題などさらにちっぽけな問題だと思います。
 
 むしろ、私からすれば、例えば、オレオレ聖者をスマナサーラ長老と、御自身のブログ上で同列に扱っている人の方が罪が相当に重いと思っています。

 なお、私がXとして想定しているのは必ずしも一人とは限りません。文脈によります。
ヴィーナス
2011/02/12 09:18
(X(1以下)の続き2)

 Xというバンドは、御存じでしょうか?

 「変人」と呼ばれた小泉元首相も、Xの曲で気に入った曲があったと記憶しています。あるいは、ファンでしたでしょうか。

 そのXのメンバーの中でも光を放っているのが、YOSIKIです。

 多くの人がヒット―メーカーとしてYOSIKIの名前は御存じのことと思います。

 しかし、一般の人から見れば、YOSIKIはヒットメーカーの一人にすぎないでしょう。他のヒットメーカーとの違いは分りません。

 私は、最初Xの音楽を聞いた時、クラッシックが融合されていて壮大・華麗な印象を持ちましたが、YOSIKIが小さい頃、クラッシックの勉強をしていたことを知って納得しました。

 なので、他のヒットメーカーよりも深みはあるが、でも、それは芸術性の故にヒットしているといった程度の認識でした。

 しかし、妹(前に話しましたが絶対音感を持っていて音楽の先生をしています。ちなみに、音大も出ています。)に話を聞くとそういうレベルではないようです。

 私の妹はクラッシックを専門にやっているわけですが、そのクラッシックの領域でも全く歯がたたないほど、差があるそうです。

 とにかく、凄い技術力というか、音楽力だそうです。

 (妹が以上のような表現を用いたわけではないのですが、私が「伺」で理解したとおりに、私の言葉で表現しています)。

 妹の話を聴いてから、XのYOSIKIは、私の中では、「ヒットメーカーの中でも卓越した才能の持ち主で、超一流なのだな」という意識に変わりました。

 なお、小泉元首相は、別のなぞなぞの意味を持ちます。

 また、YOSIKIというのも別のなぞなぞの意味も持つのですが、こちらの別のなぞなぞの意味は、まず分らないと思います。
ヴィーナス
2011/02/12 12:27
このブログにコメントされているお一人お一人が幸せでありますように、

このブログを見られている方が幸せでありますように

このブログの管理人さんが、幸せでありますように

以上の皆様の、親しい人も幸せでありますように

以上の人の、嫌いな人々も幸せでありますように

以上の人を、嫌っている人々も幸せでありますように

以上の人も含め、わたしも含め、わたしの知っているものも、知らないものも、全ての生きとし生けるものが幸せでありますように。
才木広之
2011/02/12 23:08
(X(1以下)の続き3)

 直前のコメントでYOSIKIと書いてしまいましたが、YOSHIKIが正しいと思います。
 つまり、「H」が抜けていました。

 それから、YOSHIKIは、今でこそ、天皇即位10周年記念式典における奉納曲ピアノコンチェルト「Anniversary」や、

 東京大空襲の主題歌「愛する人よ」(歌はテノール歌手の秋川雅史さん)

 などで、クラッシックの分野でもかなり目立った活躍をされていると思います。
 
 クラッシックコンサートも開いています。

 しかし、私が最初YOSHIKI作曲のXの音楽を聴いた時、クラッシックが融合されていると感じたのは、1990年代の初めのころです。しかも、マスコミなどでそのようなことはあまり大きく取り扱われておらず(ヴィジュアル系バンドという扱いだったと思います)、自分個人の感想として感じたものだったと思います。

 少なくとも私はマスコミの意見でそう判断したわけではありません。

 また、妹がクラッシックの分野でもYOSHIKIには全く歯が立たないという趣旨のことを述べたのも1990年代の初めからせいぜい1995年くらいのことだったと思います。
 
 なので、YOSHIKIがクラッシックの分野で活躍を魅せる前のことだと思って頂ければと思います。

 私は、専門家としての妹の評価だけではなく、自分でもYOSHIKIの能力をできる範囲で確かめました。

 なお、「H」「天皇」「東京大空襲」は別のなぞなぞにもなっています。
 「H」のなぞなぞは、協会の掲示板における「quiet・qの時代」から御存じの方でないと完全解は難しいと思います。
ヴィーナス
2011/02/13 10:39
(X(1以下)の続き4)

 あくまで譬えですが、YOSHIKIは、クラッシックを現代音楽の装いで伝えることができる天賦の才を持っているのだと思います。

 つまり、クラッシックを誰にでも理解できるように伝えることができる天賦の才を持っているのだと思います。というか、一般の人にはクラッシックが根底にあることすら気づかせません。
 
 否、もっと言うならば、YOSHIKIは、クラッシックの根底にある「本物の音楽の真理」を現代音楽の装いで伝えることができるのだと思います。

 そして、場合によっては、「本物の音楽の真理」を難しいクラッシック音楽で伝えることもできるわけです。

 ところが、才能のない人、単なる大衆は、YOSHIKIが大衆に現代音楽を提供しているところだけをとって、単なる一アーティストとして捉えるわけです。

 しかし、YOSHIKIは実は、超一流のトップアーティストであり、本質的な力において他のアーティストとは、圧倒的な差があるわけです。

 つまり、「本物」です。

 「本物」は、小学生、中学生にも理解できる言葉で、「大学」以上のレベルの超トップレベルのことを教えることができると思います。

 しかし、注意も必要です。小学生、中学生が理解できる言葉で、文字通り小学生、中学生レベルのことを教える人もいるからです。

 「本物」「天才」はその時代に把握することが難しいことが往々にしてあると思います。時代を突き抜けているのですから、その時代には理解されないこともあるわけです。

 「クラッシック」はなぞなぞですが、答えを書くと、テーラワーダ仏教のことです。気づいておられましたでしょうか?
ヴィーナス
2011/02/13 12:29
(X(1以下)の続き5)

 YOSHIKIはあくまで譬えですが、例えば、私がスマナサーラ長老を本物だと思ったのが1990年代初めであるというわけではありません。
 また、私が、スマナサーラ長老が現代にブッダの教えを伝えておられる本物であると確信したのは、あくまで、スマナサーラ長老が指導されるヴィパッサナー体験に基づくものです。つまり、自分の体験に基づくものです。
 他の専門家の意見は全く参考にしていません。

 スマナサーラ長老の瞑想指導の凄さは、少なくとも名色分離智慧の御指導を受けるまでは分らないと思います。

 その名色分離智慧は、マハシ・セヤドーが「ミャンマーの瞑想」という本の中で述べているのとは異なる遥かにレベルの高いものです。

 私は、マハシ・セヤドーのミャンマーの瞑想を読みましたが、自分のヴィパッサナー瞑想体験とは符合しません。ですから、ほとんど信用していません。

 しかし、スマナサーラ長老のご著書、あるいは、ご指導は、私がヴィパッサナーで体験したこととかい離したことはなく、ピッタリと符合します。

 なので、(これだけではありませんが、他のヴィパッサナー体験と合わせて)、私は、スマナサーラ長老を超一流の本物(つまり、阿羅漢聖者)として、マハシ・セヤドーの圧倒的上に置きます。
 マハシ・セヤドーは預流果にも悟っておられなかったというのが私の考えです。
ヴィーナス
2011/02/13 13:32
(X(1以下)の続き6)

 それで、例えばYOSHIKIの能力の高さというものは、次の一文からも伺えると思います。

 「バッハは全てが主旋律というか、メロディと伴奏ではなく、メロディとメロディが曲を構成するのが画期的な発想で、僕も作曲で影響された部分は大きいと思う。でも、凄い、心に来ます。」

 (引用終わり。CD「YOSHIKI SELECTON YOSHIKIが愛したクラッシック」ライターノーツ)

 これはおそらく対位法のことを説明していると思います。
 
 ピアノでは通常、右手でメロディを奏でます。そして、左手で和音などの伴奏を弾くわけです。
 
 それが右手も左手もメロディというようなイメージだと思います。
 そういうのがYOSHIKIの言葉からは単なる「尋」ではなく「伺」として伝わってきます。
 
 それは、YOSHIKIが対位法を非常に高いレベルで自分のものにしているからだと思います。

 対位法をネットで調べてみてください。物凄い小難しいことを言っています。
 微妙な表現の違いに段違いの才能の違いが観て取れると思います。

 「右手」と「左手」はなぞなぞです。
ヴィーナス
2011/02/13 14:27
(X(1以下)の続き7)

 それと、YOSHIKIにこんな話があります。

(引用開始)
 
 YOSHIKIは絶対音感があると思いますか?
→作曲する時に紙とペンだけで作曲するとの事をインタビューの中で答えているのでこの部分だけでの判断だと絶対音感があるように感じますが、違うインタビューではデビュー当初はピアノを半音下げで調律してらしい。(…中略…今は克服されてます。さすがです。)

 この部分ですが私の知り合いに絶対音感の方が二人います。
 私が持っているキーボードでこっそり半音下げ設定し弾かせてみた所二人とも弾けないのです。
 話しによると押している鍵盤と出ている音が違うので物凄い違和感が生じてしまうみたいです。
 私は絶対音感が無いので問題ないのですが…。
 YOSHIKIは絶対音感があるのでしょうか?
(引用終わり)

 私がびっくりしたのは半音下げて調律していたという部分です。モーツァルトの時代はピッチが違って、現代より、半音程度下げた音になるという話を以前にしました。

 YOSHIKIには、過去世の体験が今世でも働いているのではないかと思いました。だから、あれだけの音楽的才能を発揮できるのではないか。本人に過去世の記憶はないでしょうが…。しかし、心に何か残っている。

 それと、YOSHIKIに絶対音感があることを疑う人の根拠は、「絶対音感のある人は、ピアノの不協和音などは不快で聞いていられないから、YOSHIKIのパフォーマンスにあるカオス的なピアノの不協和音なども、かなり苦痛になってくること」などを理由にしています。

 しかし、私はYOSHIKIも通常の絶対音感ではない「超」絶対音感を持っているのではないかと推察します(以前、モーツァルトは「超」絶対音感を持っていたと思うという話をしました)。
ヴィーナス
2011/02/13 16:03
 私のコメントは以上で終了します。

 どうもありがとうございました。
ヴィーナス
2011/02/13 16:50
X Japan - Tears

を私は昔、死ぬほど聞きました、人気のない、駐車場や、山の上に行き、車のなかで、最大音量で、一日中聞き続けました。

何かを断ち切るとき、社会の上で、断ち切らなければいけない状態に自分がおかれた時、この曲を聴いていた、逃げていた自分、とっても弱い自分だから、逃げるより、方法を見出せなかった自分、

その時に一日中、聞いていた曲が、X Japan - Tears

でした。

生きとし生けるものの、悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの、願い事がかなえられますように

生きとし生けるものに、悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
生きとし生けるものが、幸せでありますように。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
生きとし生けるものが、幸せでありますように。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。


生きとし生けるものが、幸せでありますように。





生きとし生けるものが、幸せでありますように。
才木広之
2011/02/13 22:48
わたしは、こうして、たくさん、たくさん投稿をしいました。

心をゆるすこと。人に心をゆるすこと

人と分かりあいたい、自分のことが分かってほしい、

その叫び声、叫び声、

叫び声にしかならないその思い。

人は、孤独だと、こころは、孤独だと、

知ってるからこそ、知り尽くしてるからこそ、

分かりあいたい、こころを分かってほしい、あなたの心に危害を与えたくない、あなたの心に危害をあたえる気はない、そのことを分かってほしい、分かってほしい。

だけど、自分には、あなたをすべて受け入れる、その心も持っていない、けれど、あなたに危害を与えたくない

その弱い自分が、あなたに、何かをしてあげたい、だけど、弱い自分だから、自分の弱い、自立できてない、情けない自分が、腹立たしく、あなたにあたってしまう。
怒りをぶつけてします。本当は、あなたに危害を与えたくない、やさしくしたい、だけど、素直に心をゆるすことができない僕は、あなたにあたってしまう。分かってほしいと思うからこそ、あなたにあたってしまう。

才木広之
2011/02/13 23:04
わたしは、こうして、たくさん、たくさん投稿をしいました。

心をゆるすこと。人に心をゆるすこと

人と分かりあいたい、自分のことが分かってほしい、

その叫び声、叫び声、

叫び声にしかならないその思い。

人は、孤独だと、こころは、孤独だと、

知ってるからこそ、知り尽くしてるからこそ、

分かりあいたい、こころを分かってほしい、あなたの心に危害を与えたくない、あなたの心に危害をあたえる気はない、そのことを分かってほしい、分かってほしい。

だけど、自分には、あなたをすべて受け入れる、その心も持っていない、けれど、あなたに危害を与えたくない

その弱い自分が、あなたに、何かをしてあげたい、だけど、弱い自分だから、自分の弱い、自立できてない、情けない自分が、腹立たしく、あなたにあたってしまう。
怒りをぶつけてします。本当は、あなたに危害を与えたくない、やさしくしたい、だけど、素直に心をゆるすことができない僕は、あなたにあたってしまう。分かってほしいと思うからこそ、あなたにあたってしまう。

才木広之
2011/02/13 23:07
やさしくしたい、やさしくしたい

やさしくしたいのに、うまくいかない

やさしさを与えたい、のにうまくいかない

心が通じ合いたい、通じ合いたい、分かってほしい、

なにも危害を与える気はないんだよと、

分かってほしい、その気持ちが、時には、破壊行為となり

心を破壊していく、やさしくしてあげたい心を、自分で自分がどんどん破壊していく。

やさしくしたいのに、分かってもらえないから

そのやさしくしたい心を、自分で自分が破壊していく

なおしてあげようよ、慈悲の冥想で

なおしてあげようよ、慈悲の冥想で

やさしい心を、破壊してしまった、やさしい心を、

もう一度作り上げようよ

そしたら、作り上げたら、見えるよ、そこに見えるよ

幼き日の、やさしかった心が、見えてくるよ

慈悲の冥想で、作り上げた、やさしさではなく

壊したつもりの、やさしい心

心を汚して、隠してしまった、やさしい心が見えてくるよ

赤ちゃんの笑顔を見てごらんよ、なんの曇りもない、あの瞳を見てごらんよ。

自分にもあったんだよ、あの曇りのない、瞳があったんだよ。

ただ、逃げて、逃げて、逃げて、自分から逃げて逃げて、逃げるために、曇らせて、自分で自分を曇らせて、瞳を曇らせたんだよ、

今度見て御覧、赤ちゃんの瞳を、なんの曇りもない、あの瞳を。

自分で曇らせた、自分の瞳、こころ

その曇りを見つけさえすればいいんだよ、

その曇りに気づけばいいんだよ。

逃げて、逃げて、隠した、こころ

隠したことも忘れてしまったわたしたち、

才木広之
2011/02/13 23:21
あの赤ん坊の時の瞳は、だれが曇らせたんだい

自分が曇らせたんだよ。

自分をだまし、逃げ、隠し

隠したことも、だましたことも、逃げたことまで、隠してしまったわたしたち

思考によって隠してしまったわたしたち、

思考を、やめて、止めて、返してあげようよ。

あの頃の、こころに、あの頃の心に帰してあげようよ

それが自分に対するやさしさだよ。



才木広之
2011/02/13 23:22
http://www.youtube.com/watch?v=-STj-hzM780&feature=BF&list=QL&index=1
才木広之
2011/02/13 23:37
わたしは以前法泉寺さんの掲示板にて、恩返しという方に出会い、一つ悟りました、

今度こうして、ヴィーナスさんという方に出会い、またひとつ、悟りました。

わたしには、なぜだか分りませんが、恩返しという方、ヴィーナスさんというお方、わたしは分からないのだけど、何か、わたしの心を、見透かされ、案内されているような気さえします。わたしには解らないのだけど、恩返しさんや、ヴィーナスさんには、わたしの心が見えてるような、そんな気も、、、、それさえもわかりませんが、、、、
才木広之
2011/02/14 00:22
この思考によって、つらいこと、生きていく上で、つらいことを、隠したこの思考。

自分から逃げようという、その心によって、隠された、やさしい心、人を思いやる心、人の成功を喜ぶ心、

自分のやさしい心を、見捨て、自分の人を思いやる心を見捨て、自分の人の成功を、喜ぶ心、人の喜びが自分の喜びでもあった、その心。それを見捨て、捨てて、捨てたつもりで、実は、怒り、欲などの汚れて隠すことでしか、解決できなかった、人の喜びが、自分の喜びであったっころ人の笑顔が、自分の笑顔であった、全く同じに微笑むことをしていた、自分、

怒り、欲の感情で隠してしまった、常に隠し続けるために、常に、欲や、怒りの感情で、いる、わたしたち、
欲や、怒りの感情で隠し続けている、人の笑顔が、全く自分の笑顔であったこころ。

欲や、怒りの感情で、隠し続けていることにも気づいてない方も多いこの世の人たち。

まるで、生れた時から、怒りの感情、欲の感情であったかのような、思い。生活、自分

そこまでして、隠し続けようとする、欲の、怒りの感情

人の笑顔か自分の笑顔であった頃

赤ちゃんのころ、ほほ笑んだ心を見ると

微笑んでいた赤ちゃんのころ。

才木広之
2011/02/14 00:48
そのこころ、

自分の感じる苦を、人のせいにし続け、怒り、欲を積み重ねてきた私たち

自分の苦を、自分の苦としてしか受け入れられなかった赤ちゃんのころ、どんなに苦しくとも、つらくとも、

やさしい心に出会えば、笑顔になれた、赤ちゃんのころ

苦を受け入れていた、人のせいにしなかった、赤ちゃんのころ、やさしい心を素直に受け入れていた、赤ちゃんのころ、

人生は苦です、しかし誰のせいでもない、

生きるとは、苦です。それを受け入れていた赤ちゃんのころ、敏感に、慈しみの心を感じられていた、赤ちゃんのころ

生きることは苦だと受け入れていた、だれのせいにもしなかったからこそ、慈しみの心に笑顔で受け入れられていた赤ちゃんのころ。

けっして苦を人のせいにせず、自分で受け止めていたころ、だからこそ慈しみの心に対しては、宝物のように、守ろうとする赤ちゃん
母親の慈しみの心、暴力をふるわれようが、どんな対応をされようが、行動よりも、母親の心を感じてた頃の赤ちゃん、必死で守ろうとする、母親の、自分に対する慈しみの心

必死で守ろうとする、母親への、慈しみの心

命がけでも守ろうとする、母親の、自分に対する慈しみの心

ブッダの慈しみの心を、命がけでも守ろうとする、スマナサーラ

生きることは苦だからこそ、命がけでも、生きる上での、宝物、慈しみの心を守らねばならんのです

命がけでも守らにゃならんのです、慈しみの心を

生きることは苦ですから、だからこそ命がけで守らにゃならんのです、慈しみの心を。


才木広之
2011/02/14 00:48
慈しみのこもった、歌や、ことば、本などは、どんどん読めばいいんです。内容よりも、慈しみの心を受ければいいんです

宮沢賢治、手塚治虫、中村元、どれぞれに慈しみの心は、感じられます、宮沢賢治など、内容は大して理解できづ、法華経の思想が入ってるらしいと、後で知ったのですが、そんなこと知らずとも、慈しみの心を感じられます

やさしい心になるような、歌や、ことばや、絵などでもよいでしょう。どんどんそういったものに触れればいいんです

ご飯を食べるにしても、慈しみを感じられるようなところに行けばいいのです。

そして、慈しみにふれる時間をおくして、多くしていけばよいんです

監訳 アルボムッレ・スマナサーラ長老の、お経

慈悲の心が集まった、慈悲の冥想の合唱、

しっかりと冥想できれば、一人で、唱えても、合唱できます。

ヴィパッサナー冥想も、出家も視野に入れるぐらいの意気込みで臨めば、初心者指導の時にそういう気持ちで受ければ

またそういう気持ちに、一人の時にでもなった時に、鮮明に教えて頂いた時の、感覚、伝えようとされる、スマナサーラ氏の心が伝わってくるはずです、

出家すればいいのです、したければ、その気持ちでいてもいいんです、気持ちですから、その気持ちでいればいいんです、常に出家するような気持でいれば、いつ出家できる機会が来ても、待ってました。ということになるのですから

その出家する機会は、自分の心がそうなるか、どうかということですが

出家する気になれば、できるのです。

いつとか、今とか、いろいろとは言いません

出家する気になれば、出来ます、それだけです。

お経、は大切です。宝物です。

才木広之
2011/02/14 01:09
精舎でのブッダの、肖像

皆さんが、多くの方が、この肖像に対して、

スマナサーラ氏も、サンガの皆さまも、この肖像に礼拝いたします

ですから、大切ですし、真摯な気持ちになれます

ただそれだけですが

同じように、ブッダに帰依しているという証を得られるということは、たいへんに、真摯に、誠実に、そこには多くの方の心を感じ、力になってくれます

精舎にて、お経を上げるもよし、慈悲の冥想をするもよし、ヴィパッサナー冥想をするもよし

才木広之
2011/02/14 01:13
好きな人、一緒にいつもいたい人、せめて心の中だけでも常につながっていたい人。

いつもその人のことが心の中にあって、何かあるたびに、その人の心に逃げてしまう。そんな人がありますか、あなたに。

その気持ちはわたしも昔ありました。

この人だけは分かってくれている、弱い自分も、強い自分も、どちらかというと弱いい自分のほうを、分かってくれるときに、安らぎを感じられる人。

それは、自分をだまし、自分から逃げ、一時の安らぎを得ようとしてるのです。けれど、必ず後で苦しみを生みます

逃げ続ける訳にはいかない、出来ない、永遠に逃げ続けることはできないからです。

死ぬときは一人です、その心を誰も分かってはくれません。死ぬときの気持ちは誰もわかってくれないのです。

ですから誰もあんまり、死なないのです、

死ぬときの心を、皆が分かって理解してくれたら、すんなりと死ねるかもしれませんが、【決して無理なことが、自分の死ぬ心を分かってくれ】ということです。

苦しくても生きてるのがわたしたちです

ですから、死ぬ気持ちを分かってくれといっても、だれもわかってくれないのです

苦しくても、生きてるのがわたしたちなのです、わたしは生きているのだから、わたしたちすべてが、死ぬときの心を分かってくれといっても誰もわかってくれないのです。

誰かに分かってほしいと思うなら、苦を受け入れともに生きていくしかないのです。
才木広之
2011/02/14 01:26
最後に恩返し、ヴィーナスさんに

ありがとうございますと、言っておきます

何の因果か分りませんが、恩返し、ヴィーナスさんと言う人はわたしにとって何かあるのだと思います

いつか分かるときがくるかもしれませんね

おやすみなさい、恩返し、ヴィーナス
他ごらんの皆様

幸せでありますように。
才木広之
2011/02/14 01:43
あんさん。

どうやらまたトラックバックが反映されていないみたいてす。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/15 19:32
なおさんと慈悲の智慧へ。

わたしのコメントを見て、

どのような心が自分に生まれたか、それを観察するんですよ

人を観察するんではなくて、自分の心を観察するんですよ。頑張れ。
才木広之
2011/02/15 21:57
あんさん

ありがとうございます。

トラックバックだぶっていたら一個消していただいてもそのままでも大丈夫です。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と知慧
2011/02/15 23:14
あんさん、皆様

私のブログ画像認証を無しに致しました。

上手く書き込めなかったケースがあるみたいでごめんなさい。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/02/16 22:46
あんさん、皆様

このブログでも引用していただいた本。

協会の掲示板にて復刊をリクエスト致しました。
慈悲と智慧
2011/02/16 22:56
コメント欄の復帰をお願い致します。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
才木広之
2011/03/01 23:21
▲3 ”気づき”だけが妄想を消すことができる 幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜/BIGLOBEウェブリブログ
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