幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ◆「敵をつくらない人間の真の生きかた」 【前編】

<<   作成日時 : 2011/02/03 06:05   >>

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人間はこの世に生まれ落ちたときから、“競争社会”の一員として
スタートさせられる運命にあります。


小学校や中学校で猛勉強させられていい大学に入るのも、人より
いい人生を歩むためという大義名分の元で人に負けるなと親から
煽られます。

社会に出れば出たで、上司からは他社に負けるなと尻を引っぱたかれ、
同じ会社の同僚も出世のためのライバルとしてしか
存在しなくなっていきます。



こういう競争世界が現実であると知っていながら、人々は、また
マスコミ等は「共存共栄」こそ人間の幸せの原則であると言います。


だれもが、自分自身のことより他人である相手のことを考えて
思考、行動すれば世の中はうまく行くと言うことを知っている
はずですが、なかなかそうは出来ません。

たしかに、今日まで文明というものは、人間の競争本能が築き
上げてきたといっていいでしょう。

しかし、人間ひとりひとりを考えた場合は、競争というものには
必ず勝つものと敗れるものが存在します。

負ければ悔しい思いに駆られますし勝てば勝ったで相手に嫌われたり、
人を敵に回したりする現象も起こってくるものです。



負けた人間はプライドを傷つけられるし、勝った人間は、自分が
さらに強い競争の標的になることを自覚し、両者とも精神的に
大きな抑圧(プレッシャー)とそれに伴うストレスに見舞われる
ことになっていきます。


となると、勝っても負けてもそれ自体がストレスの固まりと
なってしまい、人間の生き方として、幸福感には程遠い、むしろ
苦しみに満ちた人生となってしまいます。



画像



仏陀の言葉のひとつの「生もまた苦である』
という意義がここにあります。




 それでは私たちは社会の一員として、いったいどうすれば
ストレスのない、幸福と安らぎを味わえる人生を創造することが
出来るのでしょうか。

これまで述べてきた「競争」という言葉を「共存」という言葉に
置き換えて考えてみると、分かりやすくなってくると思うのです。


いま、私自身のことを考えてみても、私は一人でこの世を
生きているのではありません。


同じようにあなただって一人で生きているわけではないでしょう?


あなたが奥さんであれば、あなたには夫という人がいます。


お子さんも一人か二人いらっしゃるでしょう。


また、ときどき訪ねてくるあなたのお母さん、お父さん、そして
田舎にいるお兄さんの存在も忘れてはいけませんね。


さらに、いつも何かと世話になるご近所の奥さんもいますし、
あなたは疎んじているかもしれませんが、旦那さんの方のご両親、
ご兄弟もいます。

さらに言えば、ご主人の会社の上司や同僚だって、間接的にかも
しれませんがあなたの人生に深く係わってくれている人々です。



そういう人たちの協力があって、あなたは今というときを生きて
いるのです。

言い換えれば、それらの人々が生きていてくれるから、自分という
生命が成り立っているのです。

・・・・・つづく・・・・・・



パティパダーNo.1 (1995年3月創刊号)巻頭法話より
A・スマナサーラ長老

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コメント(45件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。

まずは、「互いの違いを認める」ということが大切のように私は思います。

そうでないと「自分だけは特別偉い」となり、共存は無理だと思います。

一つ一つの生命がユニークな存在。とスマナサーラ長老が申されておりました。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 07:38
昨日のブログで、アディモッカが出てくるとは驚きました。心所に取り組むなんて。

私は公共事業で働いていますから、競争はあまりないです。けっこう、助け合いというか、梵天界にいるような気がします。ただ、細かい指示が多くて、ついてゆくのは大変です。

今日は休みなので、ちょっとゆっくりした気持ちで、仏教の修行をしたいと思います。ありがとうございました。
ぱん
2011/02/03 07:55
 新さまは、米長棋士に関心が御有りのようですし、今日の「競争」の話と関連するので、コメントします。

 米長棋士が運がよくなる方法として、「自分にとって大切な一番ではないけれども、相手にとって大切な一番で絶対に勝つ」というようなことを述べています。
 
 たとえば、自分はもう昇段が決まっているけれども、相手の昇段、降段をかけた一番で絶対に勝つということです。
 特に三段から四段に上がるかどうかは棋士にとってはプロになるかどうかというところで、死活問題だと思います。
 
 自分はもう四段に上がることが決まっている、相手はまだ決まっていない、相手は次の一番で自分に勝てば昇段してプロになれる。
 相手は、次の一番で負ければ、プロにはなれない。しかも、年齢制限により、次の一番に負ければ、将棋界から去らなければならない。

 こうした一番では相手に絶対に勝たねばならない、勝つと運がよくなる、というのが米長哲学です。

 私は、この趣旨が一読しただけでは、ピンときませんでした。
 それは何が何でも相手を蹴落とすという激しい競争であって、よくないのではないかと思ってしまったのです。

 しかし、後になって、米長棋士の真意は、八百長(そこまで行かなくても、無気力将棋)を封ずるというところにあるのではないかと思うようになりました。
 少なくとも、無意識にそのことを述べておられ、その結果として運がよくなるということではないか。
 
 私の認識では、この米長発言があってから、例えば、羽生善治名人、佐藤康光棋士などがこれを踏襲していると思います。
 
 そして、マスコミの監視が厳しい今日において、将棋界は、これまで八百長疑惑などかかることなく来ているように思います。
 この点で、今八百長騒動が起こっている相撲界とは異なった道を歩んだように思います。
ヴィーナス
2011/02/03 08:17
おはようございます。

記念すべきパティパダー創刊号ですね
16年も前ですかぁ

きっと、スマナサーラ長老が、その時の日本人に対して「幸せに生きる」ために一番おっしゃりたかったことなんじゃないでしょうか。

私は生命のネットワークの一部
あなたも生命のネットワークの一部


生きとし生けるものが幸せでありますように

「慢」



358
2011/02/03 08:32
生きとし生けるものが幸せでありますように。

安穏で安らぎに満たされますように。
慈悲と智慧
2011/02/03 09:03
(続き1)

 それで、米長棋士の話は、また後でコメントをすると思いますが、ひょっとして、なれ合いが「慈しみ」と勘違いしている人もいらっしゃるのではないかと思うので、次のスマナサーラ長老の説法を含むコメントを引用します。
 
(引用開始)

 スマナサーラ長老は、その人そのものを攻撃するのはよくないが、単なる意見や見解なら、どんなに壊してもいいし、そのほうが仏教的であると話されてます。混同されないように。。

(引用終わり)
 http://budda.at.webry.info/201010/article_1.html

 以上は、析空さまのブログにおける「しんちゃん」(ハンドルネーム)の2010/10/13 09:50におけるコメントです。

 これは、ある方が「他人直しより自分直し」と意見を述べられたのに対して、「しんちゃん」が反論されたものです。

 他人の意見を壊したりする場合には、一見他人を批判しているように観えることもあると思いますが、批判している人の能力などを観て、他人の人格を攻撃しているのか、他人の意見を壊そうとしているのか、見極める必要があると思います。
ヴィーナス
2011/02/03 11:21
スマナサーラ長老の法話、ですね。

僕の、感想文です

身近な人を捨てて、自分の世界を築いてはなりません。

自分が主役になって、好きな人を脇役に選ぶことをしてはいけません。

とあスマナサーラ先生、僕はそのように思いました。
才木広之
2011/02/03 12:54
 このような見解があります。

 (引用開始)

 どうでもいいことですが修行が足らないので我慢できずに一言(笑)

 純粋に教学的な問題で、特定の個人を攻撃しているわけではありませんのでご了承ください。…中略…

 どんどん新しい概念を付け足したことで『誰でも修行すれば悟ることが可能』という仏教の基本から脱線したと言う意見があるようですが、二因の概念も来世での悟りを否定しているわけではありません。…中略…

 二因でも悟れると信じるのは信教の自由で問題ないと思いますが、テーラワーダ仏教から言えばミャンマーでは問題外です。
 
 (引用終わり)
 http://arana-vihara.blogspot.com/

 これはあるテーラワーダの長老のご見解です。

 この長老のご見解の中に出てくる「どんどん新しい概念を付け足したことで『誰でも修行すれば悟ることが可能』という仏教の基本から脱線した」という意見は、どなたのご意見でしょうか?

 それは、スマナサーラ長老の御意見です。パティパダー仏暦2553年(西暦2010年)4月号25頁下段に「全く同じ文章」が明確に出ています。

 つまり、そのテーラワーダのお坊様は、スマナサーラ長老を批判されているわけです。

 パティパダーは前月20日あたりに発送されますから、上のパティパダーは2010年3月20日あたりで発送されたことになります。

 そして、上記テーラワーダのお坊様の意見は、2010年3月24日にブログ上でなされています。

 ですから、スマナサーラ長老を批判されたことは極めて明確です。

 ブログにおいては、「特定の個人を批判するわけではありませんが」というような枕詞を冒頭に置き、後は、特定の個人を誹謗中傷するというテクニックが用いられることもあります。
ヴィーナス
2011/02/03 13:01
米長VSライバルの人、の対局を見に、将棋連盟本部に行ったことあります。現役を離れた人同士の対局でしたから、真剣勝負って感じでもなかったんですが、それでも、何か美しく、「将棋は王をとった方が勝つ」という基本がわかりやすく学ぶことができるよい機会でした。米長さんと藤沢名誉棋聖の対談本を読んでファンだったので、
ヴィーナスさん
2011/02/03 13:14
上の訂正です。上の投稿者「ヴィーナスさん→ぱん」と訂正します。

ヴィーナスさんへの返信っていう意味で書こうとしたんですが、最近、ブログから離れていたので、ケアレスミスをしてしまいました。失礼しました。
ぱん
2011/02/03 13:16
まずは、ハンドルネーム、「なお、蛇使」なる人物は、私ではない。ことを固くお断り致します。

スマナサーラ長老は意見は必ず「異論、異見」になると話されていた記憶があります。

意見の違いが、感情的衝突となる傾向は、特に日本人に著しいと思います。

かつて、青年交流会での「長老の本でダンマトーク」の場で、ディベート方式で議論する(時事的問題含む)機会があり参加しました。

現在は行われているかどうか知りませんが、そのような訓練で、「建設的な議論なのか?反論のための反論、個人攻撃なのか?」を観る目が養われていくように思います。

ディベートと言えば、松本道弘さんなどが有名ですが、「日本人は議論の違いが感情の対立に極めてなりやすい」と著書や講義で述べてます。

また、数学者の藤原正彦さんは、著書「数学者の言葉では」の中で、「アメリカの大学生は、分数の計算もろくに出来ないのに、議論となると数学者の私でも負けてしまう場合が多い。彼はは滅法議論が強い。それは小学生から訓練されている」という趣旨のことを述べてた記憶があります。

ディベート教育にも賛否両論があるようですが、少なくとも「反論する場合は慎重の上に慎重に」というのは、この日本においては、今現在は一般論として言えるように思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 14:19
(続き2)

 ぱんさんへのお返事、ぱんさんのブログ記事「ワンギーサさんによる瞑想指導(2009年9月)」 に致しました。
 http://alcedo-atthis.at.webry.info/201101/article_13.html
ヴィーナス
2011/02/03 14:19
(続き3)
 
 新さん。

 ディベートは私は全く詳しくはありませんが、こんな感じでしたでしょうか。

 claim : 筆者の「主張・意見」(論証責任を負う)
 data : クレームが正しいことを裏付ける事実・具体例など
 warrant : データをあげる根拠

 例えば、「AがBを殺した」という主張がclaim。

 そのclaimを裏付けるCが「AがBを殺したのを見た」というのがdata

そのdataの信用性の根拠となる「Cは正直である」というのがwarannt

 民事訴訟何かだと、claimは主要事実、dataは証拠資料、waranntは補助事実に対応するような感じがします。

 ただ、ディベートの場合は、法律問題と違って、正しいか否かを判定する尺度となる法律がありません。なので、例えば、上の「AがBを殺した」というclaimがdetaとwaranntにより認定されたとします。

 これが法律問題だったら、例えば刑法199条の殺人罪を適用して有罪とすることができます。

 しかし、法律がなかったら、つまり、単なるディベートの場合は、「AはBを殺したという事実が認められる」で終わるように思います。

 青年交流会の話は、ぱんさんのブログ、
 http://alcedo-atthis.at.webry.info/201012/article_13.htmlと、
 http://alcedo-atthis.at.webry.info/201012/article_14.htmlに比較的最近の話が出てきます。
ヴィーナス
2011/02/03 16:36
ヴィーナスさん。

そうですね。ディベートそのものは手段だと思います。

松本道弘さんの著書を読んだり、講座に出席した限りでの情報では。

だから、法律家や法律家志望の人も松本さんの講座などでは結構いたように思います。

ゴータミー青年交流会でのディベートは、立場を逆転させて議論するというものでした。

実例を一つ出すと、秋葉原の事件の時、ナイフの規制に関する議論がありました。

私はナイフ規制反対でしたが、逆に「ナイフは規制すべき」という立場で立論するわけです。逆も同じです。

勿論、お互いの論拠の正当性の主張を覆すべく、反論
合戦となるわけですが、ゴータミーでのディベートの場合は、雰囲気的に帰す言葉がなく、頭を抱え込んだほうが負け。という感じでした。グループでやります。

元々が、(例えば、ナイフ規制すべきでないが、勝った場合は、その主張は私のそれまでの持論です)逆の立場の意見を潰すので、精神的ショックは少ない。という具合でした。

では、何故ディベートという手段かといえば、それは「根拠に基づいて意見を述べる」「持論に対しての執着をなくす」ということのために。ということだったと思います。

それでも、感情的になる雰囲気は多少はあったように思います。

反論を冷静に受けとめるのは、案外と困難なのかもしれません。

2011/02/03 18:03
そして、ディベートで円滑な議論をするための地ならしをしてから、スマナサーラ長老の著書の内容についての疑問などを自由に議論したように思います。

最終的に不明な点は自己承諾して納得せず、スマナサーラ長老に質問(何人かで質問しにいくか、誰か代表で質問するかだったと思います)しにいきます。

議論を尽くした後での質問なので、スマナサーラ長老からは、より内容の深いご回答がなされた。という感じだったと思います。

機会があれば、またいつか青年交流会の「長老の本でダンマトーク」に参加したいとは思ってます。

スマナサーラ長老の超越した智慧もあり、ブッダの教えを学ぶ企画としては、とても優れたものだと思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 18:58
(続き4)

 一般にはディベートは、論理的と思われていると思いますが、私は、ディベートは論理構造に欠陥があると思います。

 判断する基準となるべき客観的尺度がないからです。

 感情的になるのもそれが関係していると思いますが、それ以前にそこがポイントのように思います。

 たとえば、ナイフを規制するという話の場合、法律問題ならば、最終的には、裁判官が、銃刀法に違反するか否かという客観的尺度で判断することになります。

 ナイフの規制を立法論として論ずるならば、憲法が禁止しているのか許容しているのかという形で、憲法を客観的尺度として判断することができます。

 ディベートの場合には、こうした客観的尺度がありませんから、判断のしようがありません。判断しても主観的な判断になると思います。(ちなみに、ディベートにもジャッジがいたと思います。)

 もし、青年交流会において、ジャッジが判断するならば、その場合は、仏陀の教えを客観的尺度とすることになると思います。ただ、真理のレベルの判断は、賢者でないとできないのではないかと思います。
 
 もしやるならば、予め、皆が仏陀の教えを尺度として、例えば青年交流会のリーダーがジャッジする(それは真理の立場からの判断ではなくあくまでその場限りの仮の判断)ということに皆が心から同意して、ディベートを行うといったことが必要なように思います。

 なお、先のコメントでwaranntと表記しているところがありますが、warrantが正確です。

 それから、上記しました青年交流会についてのぱんさんのブログURLには、「ヤサさん」の法話が紹介されています。
ヴィーナス
2011/02/03 19:34
ヴィーナスさん。

あくまでも「手段」という意味です。ルールなき議論も不毛だと思います。

漠然とした議論の場合は、やはり感情的になりやすいように思います。また馴れ合いになりやすい側面があります。実際、ダンマトークの議論で反論されて、突然怒り出してしまい、かなり紛糾した場面にいたことがあります)

青年交流会でのディベートの目的は客観的なジャッジにあるのではなく、「いかなる持論にも欠点がある」という事実を肌で感じるためには有効だったと思います。(肌で感じるということが重要だったと思います。例えば、私は謙虚で理性的と内心思ってる人が感情的になった場合などは、やはり自分こそ正しいと思ってる、ということです)

法律的に正しいからといって、それが絶対正しいとは限らない。ということまで視野に入れて、あの時は議論したように思います。

繰り返しになりますが、ディベートの目的は「持論に対する執着をなくす」ことで、勝ち負けは二の次、三の次だったと思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 20:56
 新さま。

 まだ「尋」が強すぎます。私のなぞなぞは「伺」で読まないと解けません。

 前記事と、前々記事の私の最後のコメントを合わせてお読みください。でも、分っても解答をここに書かないようにお願いします。
ヴィーナス
2011/02/03 21:13
ヴィーナスさん。

あなたらしくないですね。

ナゾナゾの答えは、暗号で(というか暗喩で)書いてあります。

今は尋モードでコメントしてます。

そもそもそれは、ヴィーナスさん以外語れない内容のはずです。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 21:45
 新さま。

 答えは全然書いていないと思います。青年交流会とかまったくもって関係ない話ですから。

 まず、前々記事のXという人物がだれか分れば簡単に解けるなぞなぞです。

 おそらくもうあんさまなどは答えは分っていると思います。

 上の新さまのコメントは、分っていないのを取り繕っているように観えると思います。

ヴィーナス
2011/02/03 21:59
ヴィーナスさん。

既に答えているので、青年交流会とかの話しをしてます。

ナゾナゾは終わってるものとして話している。という意味です。

ナゾナゾを出された時のコメント欄に答えがあります。

ただ、露骨に書くと何かと問題があるので、ヴィーナスさん以外にはわからないと、私なりに思う表現で書いてます。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 22:28
ヴィーナスさん。

一般的にヴィパサナーで預流果になる時は、禅定もあると思います。

ここで、Xを凡夫とすると、自在に「伺とは何か?」を語る能力はない。少なくとも、自らの体験から語ることは無理です。

ヴィパサナーで、預流果に達した場合、自らの体験で、そして体験の故に、自在に語ることが可能になります。

そこがYとの違いです。

もし間違っていたら、「間違え」とだけコメントしてください。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/03 22:47
 新さま。
 
 「ナゾナゾを出された時のコメント欄に答えがあります。」と仰っておられるのですが、どのコメント欄か分りません。
 
 @どのあんさまのブログ本文記事に書かれたコメントか、及び、Aコメントの年月日はいつか、を示して下されば、こちらで確認します。

 切り方によって、私がこのあんさまのブログにコメントした最初からなぞなぞが始まっている(少なくともなぞなぞの布石は始まっている)ともいえますし、また、切り方によっては、X、Yについてのコメントをした時点でなぞなぞを出したともいえます。

 その他にも色々な切り方がありえます。

 切り方によるので、特定して頂かないと私には判断ができないからです。

 スマナサーラ長老は、「ヴィパッサナーで第一段階の悟りの境地に達する場合、そのこころはおのずと第一禅定状態にもなるのです。」と仰っています。(パティパダー仏暦2551年/西暦2007年 12月号 35頁)
 
 ですが、第二禅定状態に到達するかどうかは人によると思いますので、尋が消えて、伺があるという第二禅定(アビダンマの分類による第二禅定)は、体験している預流果もいるし、体験していない預流果もいると思います。

 Yが預流果であるか、この第二禅定に到達しているかどうかについてはコメントすることはできません。

 それと、Xが凡夫であるという理由からだけでは、「自在に『伺とは何か?』を語る能力はない」ということは言えないと思います。

 なぜならば、凡夫でも、サマーディ冥想により第二禅定に到達していることがありうるからです。

 しかし、Xは第一禅定にも到達していない凡夫なので、自在に「伺」を語る能力はないと思います。
ヴィーナス
2011/02/04 05:20
 続きです。

 ここで大きなヒントを出します。

 Xは、ブログ記事において、第一禅定に到達しなくとも、近行定(禅定に入る手前とご本人は定義されておられます)に到達するならば、悟ることができるという意見を述べています。

 つまり、ここでもスマナサーラ長老が伝えられるブッダの教えと異なることを述べています。

 また、一度この近行定に到達すると後戻りしないかは分らないがサマタによる禅定よりは崩れにくいということを聞いたことがあるという伝聞形で語り、禅定がないことをうっかり「自認」されたブログ記事でもあります。
ヴィーナス
2011/02/04 05:30
 前記事の2011/02/03 06:39のコメントに、「スマナサーラ長老はそのお坊様にブログにコメントするように指示されます。」と書きましたが、「そのお坊様のブログ」が正しいです。
 この訂正を前提に、上のヒントをお読み下さい。
ヴィーナス
2011/02/04 06:01
ヴィーナスさん。

最近、コメントが60になった時の、私の最後の前のコメントです。

私はあくまで、スマナサーラ長老の瞑想指導で禅定を作るという前提で述べています。

たしかに「サマタ瞑想」でも、禅定は作れますが、それは「悟り」ではありません。

それが、「悟り」を意味するものか?というポイントが重要です。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/04 08:08
つまり、Xの瞑想指導は最初から度外視してコメントしてる。ということです。

スマナサーラ長老のヴィパサナーという前提も一種の暗喩です。


2011/02/04 08:21
 新さま。

 重要なのはXなのです。そこを解かないと私のなぞなぞは解けません。ちなみに、別記事で、書いている米長棋士の話もなぞなぞです。

 ゴータミー精舎で起こった、スマナサーラ長老が説法をしている最中の日本人テーラワーダ比丘のティー・パーティ事件など、私は、明らかにXの悪影響が及んでいると思います。

 それから、青年交流会はまったくもって関係ないと先に書きましたが、青年交流会で行われているディベートがまったくもって関係ないという意味であって、そこで行われたテーラワーダのお坊様の説法が関係ないという意味ではありません。

 また、青年交流会の話は、協会のスケジュールとリンクさせる意味を持っています。http://www.j-theravada.net/のスケジュール覧をご参照下さい。
ヴィーナス
2011/02/04 15:40
ヴィーナスさん。

誘導尋問のように感じます。

引っ掛かりませんよ。

私がナゾナゾを解けてない。ということを故意に全面に出して、Xの実名を言わせようとしている。

そして、ブログ読者がターゲットですね。

私には私なりのやり方があります。(それは誰にも言いません)

このやり方では、反感を買う可能性が高いと私は思います。


2011/02/04 16:21
 新さん。名前は挙げないでよいのです。

 しかし、新さまは、2つ前のコメントで、「Xの瞑想指導は最初から度外視してコメントしてる。」と答えられました。

 それでは、出題意図を全く無視して試験で言えばゼロ点です。

 まず、Xを押さえなければ私の問題は解けません。ですので、新さまは、私がヒントを与えるまでは問題が解けていなかったことを自白されていると思います。
ヴィーナス
2011/02/04 16:34
ヴィーナスさん。

少しくどいように思います。Xのやり方では、禅定も預流果もありません。

禅定からの視点で、スマナサーラ長老の正しさを論じたコメントを見逃したヴィーナスさんのミスのように思います。

涅槃への一道というのも当然の前提となってます。

仏教知識の豊富なヴィーナスさんらしくないように思います。

そもそもこの件については以前どなたかとかなり語り合ったので、Xを私が意図的に無視したのです。ヴィーナスさんも色々コメントされてますしね。

ある事柄の間違えを主張することは、相反する主張の正しさの証明にはなりません。

その主張の正しさの証明のみに徹していけば、その他の間違えは必然的に証明されたことになります。

私はその路線のほうが良いように考えてます。

2011/02/04 17:11
 新さま。ますます墓穴を掘っています。

 民事訴訟における反対尋問が最も効を奏するものの一つとして、相手方から出た証拠から矛盾した主張を指摘するというテクニックがあると思います。

 直前のコメント「Xを私が意図的に無視したのです。」と述べておられますね。

 意図的に無視したのでは問題は解けないのです。ですから、新さまは私がヒントを出すまでは問題が解けていなかったことを自白されていると思います。

 少なくとも、裁判官は新さまの仰ることを信用しないでしょう。
ヴィーナス
2011/02/04 17:23
ヴィーナスさん。

既に「無駄話」になりつつあるように思います。

正直な所、あの記事のコメント欄の60番目を読んだ時、「余計なコメントだな」と思ったのです。

確かに、あの記事でのコメント欄でのやり取りを時系列的に考えると、私の主張はご都合主義の帳尻合わせと思われても仕方ないとは考えてます。

それを立証する証拠がありませんから。

しかし、事実そうなので、後は信じて頂くしかありませんね。

つまり、ヴィーナスさんが、この私を「根も葉も無いことを捏造して嘘をつく人間」とみなすか、「自己の正当性のために嘘をつくような人間ではない」とみなしているか、ということでしか決め手がないように思います。

60番目のコメントは、私にとって意外だったのは事実です。

しかしながら、この議論は枝葉末節というか、本題から逸脱しつつあるように思うので、その点も考慮して頂けたら幸いです。

2011/02/04 18:36
 新さま。

 全然問題解けていません。

 私が最大の主題としているのはXの瞑想指導が問題であるというところです。

 それを新さまは、「Xの瞑想指導は最初から度外視してコメントしてる」「Xを私が意図的に無視したのです。」と仰っているのです。

 答えとなるベクトルは、「Xの冥想指導は問題である」という方向です。

 新さまの方向性は逆ベクトルです。

 それでは話になりません。

 それから、私は延々と法律問題をここまでコメントしたか新さまはそれに気づかずここまで来てしましました。

 しかし、青年交流会におけるディベートの話は無関係です。しかし、私が法律問題を説いていたのはなぞなぞです。多分、あんさまは気づいておられると思います。

 しかし、分っても答えを書かないようにお願いいたします。これは秘密の領域だからです。

 新さまが解決されているのは、私が出しているなぞなぞのほんの一部です。

 例えば芥川龍之介を私が持ち出したのは、文字通りの意味もありますが、その他に、2つの意味があります。

 一つは芥川龍之介の写真をご覧になられれば察しがつくと思います。

 もう一つは「龍之介」という名前に関連しています。
ヴィーナス
2011/02/04 18:57
ヴィーナスさん。

感情的な議論をされてるように思います。

スマナサーラ長老の瞑想指導の正しさは=その他の異なる瞑想指導の間違えとなります。

何故なら、大念処経に「捏造に至る一道」とあるからです。

ヴィーナスさんがXのことを気にされてることくらいは、ヴィーナスさんの一連のコメントを読めば誰でもわかる事柄と思います。

私は敢えて「コメントを控えた」のです。無視したとは、そのような意味です。

Xの瞑想指導の間違えを指摘することは、スマナサーラ長老の瞑想指導そのものの正しさを証明することにはなりません。

両者が間違えということが有り得るからです。

だから、スマナサーラ長老の瞑想指導の正しさのみを立証していく方法のほうが、同時に他の違う全ての間違えの証明にもなり、効率的で優れているように思います。

天才数学者ガロアは、その天才故に試験官に理解されず、試験に不合格になったそうです。

2011/02/04 19:27
上記、捏造は涅槃の誤字です。

2011/02/04 19:31
 新さま。

 そうではなく、(新さまは微妙に違うかもしれませんが)、その姿勢そのものを私は批判もしているのです。たとえば、「蜘蛛の糸」を私は出したりしてます。

 スマナサーラ長老の下で、「自分だけ助かればよし」とする人々を批判しているのです。特に協会の中心部にいる人は責任は重いと私は思っています。

 それから、Xはひとりとは限りません。新さまはどうも一人だけを想定しておられるような感じがします。それは中心人物ですが、Xは変数ですから、一人とは限りません。

 それと、これは「法律問題」の答えではありませんが、ベクトルとか、裁判とか用いたのは、http://budda.at.webry.info/201011/article_1.htmlの「2010/12/07 10:30〜2010/12/12 18:52」までのコメントに対応させています。Xが一人でないこともお分かり頂けると思います。

 それと、数学を持ちだすことで「後継者を定める必要がある」ということを暗示しているわけです。

 それから、先に芥川龍之介にも、文字通りの意味の他に、2つの意味があると申しましたが、それも1人の人物ではありません。

 それと、試験官がガロワの天才性を理解できなかったのは、試験官がガロワよりも馬鹿だったからですね。
 
 それは、私がなしているコメントにはありえないと思ってください。

 「密命」(これもなぞなぞです)。
ヴィーナス
2011/02/05 06:55
 続きです。米長棋士を譬えとした問題については、答えの一部をあんさまの次回のブログ記事にコメントしました。http://77713696.at.webry.info/201102/article_4.html

 それと、新さまはこちらの最後2つのコメントで私が出した問題を解いておられますでしょうか?
 http://77713696.at.webry.info/201101/article_29.html

 私は沈んでしまったコメント欄にコメントすることがあります。読む人数を絞ることができるからです。

 このブログの右横に「新着コメント」の表示があって、そこは5つしか出ませんから、5つ新しいコメントが出ると隠れます。それを利用しています。

 ちなみに、そこに現れている場合には、そこをクリックして該当記事に入ることができます(上の問題を出した記事は既に隠れています)。
ヴィーナス
2011/02/05 07:09
ヴィーナスさん。

これも嘘っぽい感じがされると思いますが「そろそろスマナサーラ長老の後継者問題とか重要な問題を議論じたほうがいいように思います。事務局長に任せておけばいいのか?という点も含めて。しかし、このブログのコメント欄での話しという点だは疑問なのです。かつて後継者問題について議論した時も、私とその方だけの対話でした。少なくとも、このブログのコメント者全員が議論に加わる形でないと、一歩進めることが出来ない。そんな気がします」という趣旨のコメントを昨夜入れるかどうか迷っていた所でした。

今朝、ヴィーナスさんのコメントがありました。

「後継者問題」をうやむやにするのは良くない。とは思います。

2011/02/05 07:17
 新さま。こちらのコメント欄に記入された方は、Xに含めておられますか?私が含めているかどうかではなく、新さまの心理状態として含めているかどうかということです。

 http://76263383.at.webry.info/201004/article_16.html

 Xは個々人の心理に問うています。
ヴィーナス
2011/02/05 07:33
 つまり、http://budda.at.webry.info/201011/article_1.htmlの「2010/12/07 10:30〜2010/12/12 18:52」までのご紹介のコメントに出てくる人物、
 上の新さまのhttp://76263383.at.webry.info/201004/article_16.html
に出てくる人物、
 これらの人々がXにすぎないと新さまの心の底から納得できているのかどうかということです。

 そして、スマナサーラ長老がこれらXよりも圧倒的に能力が上である(=∞)と認めておられるかどうかということです。

 そういう意味でXが分かったというためには、単に頭で理解しただけでは足りません。
ヴィーナス
2011/02/05 07:38
ヴィーナスさん。

ご紹介さんが知らないデータを私が知っていることも、かなりあるわけです。

意外な人が、スマナサーラ長老に対して背信行為と思われることをされている事実があります。

しかし、それを書くと個人に対する中傷になるので、このブログのコメント欄は相応しくないと考えてます。

また、ズバリ言わないと、違う方を想像される危険性があります。

ヴィーナスさんやご紹介さんの危惧されてる現象は確かに起きてます。

互いのデータを出し合えば、道が開けてくるような気がします。

しかし、後継者問題のような問題は多くの人の意見を聞きたいというのが本音です。

2011/02/05 08:12
 まだ新さまが解けていないと思われる問題の解答の一部を示します。

 武田信玄は、武田勝頼を「後継者」に定めていたというのが私の認識で、普通はそこに争いはないと思います。

 武田信玄が天下統一を目指していたかどうかは定かではありませんが、目指していたと考える人は多いです。そして、天下統一を目指すべく京の都に上って行ったわけです。

 そして、後の天下人、徳川家康に大勝します。徳川家康はあまりの恐怖に脱糞までし、そのときの惨敗した姿を絵師に描かせたという話もあったと思います。

 それほどの惨敗した。

 ところが、信玄は京に上る途中で死亡し、天下統一の夢は破れたのでした。

 そのわずか2年後です。長篠の戦で、織田・徳川連合軍に、武田勝頼が率いる武田軍が敗れたのは。
 その後、武田家は滅亡の道を歩み、実際、ほどなくして滅亡したと思います。

 一応、鉄砲三段打ちの前に、武田騎馬隊が破れ、武田家は滅亡の道を歩んだということを受験勉強では学ぶと思いますが、数学者の藤原正彦氏の父親である新田次郎氏は、穴山信君(梅雪)が織田信長に裏切ったことを重視してしていると思います。

 私は小説はほとんど読まないので、新田次郎氏の「武田勝頼」の原作本は読んでいませんが。

 穴山信君は、御一門衆です。武田家の親戚です。それが裏切ったわけです。

(続く)
ヴィーナス
2011/02/05 09:17
 続きです。

 穴山信君が織田信長に裏切ったというのは、穴山信君が、織田方に内通して、武田勝頼を裏切ったという意味です。
 
 織田信長というのは、これも譬えであってなぞなぞです。
 ちなみに、おんがえし(ハンドルネーム)が、以前に織田信長の喩えを用いたことがあったと思いますが、それはまた違う話で、その時の織田信長が意味しているものとは違います。
 
 今回のなぞなぞの場合、織田家と考えて頂いた方が答えが出やすいと思います。
 
 スマナサーラ長老が御存命の間は、織田家も何もできないでしょう。
 
 後継者問題以前に、まだ、心の底からの納得が得られていないように思います。
 心の底からの納得を得てからでないと、後継者をたとえ定めても無駄に終わると思います。
 逆に心の底からの納得があれば、後継者を定めることも不要かもしれません。

 全員の納得でなくてもよいと思います。協会の中心部におられる方々が納得されれば大丈夫だと思います。
ヴィーナス
2011/02/05 09:30
ヴィーナスさん。

なるほど、その点については、その通りだと思います。

私は、もっと構造的問題があるように思います。

風通しが悪い。

特に重要問題と思われることほど、それに気づいても言えないような雰囲気を感じます。

古参の方々の発言権が強いのも一因かもしれません。

風通しが悪い。私の場合は、直接当事者にその旨を伝えます。勇気がいりますね。そこが問題のように思います。もっと意見を言いやすい雰囲気を作らないと、とは思います。

私は最近あまりゴータミーには行きたくても行けないのですが。。

2011/02/05 09:52
◆「敵をつくらない人間の真の生きかた」 【前編】 幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜/BIGLOBEウェブリブログ
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