幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ◆◆「敵をつくらない人間の真の生きかた」【後編】

<<   作成日時 : 2011/02/03 19:20   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 11

そう考えると、自分一人の存在というものが、この社会、この国、
またこの世界の人々にそれぞれ係わっていることが分かってきます。

人類の関係が敵とかライバルとか言うもので成り立っているの
ではなく、すべて兄弟であるという発想はこういう事実から
生まれてくるのです。


それを競争こそ自分の人生を豊かにする源であるといったのでは、
人間本来が歩むべき真実の道に余りにも遠い存在となってしまいます。

そう考えるより、

いまこうして自分が生きていられるその支えとなって
くれている人に対して自分が何をしてあげられるか、

その恩恵を自分の出来る範囲のなかでお返しする、
その生き方のほうが、
実行するにしてもはるかに楽で、易しいことですし、


第一実行した自分も、恩恵を受けた相手もそれぞれに心が
豊かになり、そこには怨みも悔しさも、また奢りという感情も
表出してきません。



そういう生き方のなかにこそ、人間一人一人の生き方の意義が
見いだせるのです。

画像


私自身は、生きるために自分の持つ能力と才能を駆使し、
それをまた十分に生かす方法を知っていますが、その方法を誰かを
倒すためとか、誰かと闘うためになどには決して使いません。

もし、私の周囲で誰かが私を追い抜いていったのなら、それはその
追い抜いていった人のほうが少なくとも私より能力や才能に恵まれて
いたのであり、あるいはこれから成そうとしている事柄に対して、
私の力よりもその人の力のほうが必要とされていたか、
相応しいのだと、むしろ私はその人に激励の拍手を送ることと思います。



それが、その人と私がそれぞれに相応しい立場に置かれた自然な
かたちだと考えられるからです。それはそれでありがたいことでは
ないですか。


その人も私も、べつに競争したわけでなく、従ってお互いに勝った
わけでも、敗れたわけでもありません。



いづれのときか、立場が変わるときもあるでしょうし、あるいはそういう
変化が起こらないかもしれませんが、それでいいではないですか。

また、私に競争を挑んでくる人もいるでしょう。



でも、
私自身がその人のことを競争相手と見ないかぎり、私にとって
何の苦にもなりません。

お互いが同じ土俵の上にいるならば、
より才能の豊かなほうが優先されるでしょうし、

べつの道を歩むなら、
それはそれで何の関わりを持だない存在となります。


いづれにせよ、そういう気持でいれば、競争の相手という概念が
生じない世界になります。


 この世の中で、自分という人間の資質が十二分に発揮される位置に
自分が置かれることこそ幸せへの道にちがいありませんが、その方法とし
て競争という手段を行じることは、誤りです。



この世の中で、自分に係わってくれている人のことを念じ、

そのなかで日々努力精進していく過程に、

真の生きる意味を見いだすことができるのです。




●自分のことを、考えてみましょう。

私への恩恵をお返しするために何が出来ますか?
私でなければならないこととは何ですか?
私にしか出来ないこととは何ですか?
「私でよければぜひやらせてください」と言えることは何ですか?
「私にもやらせてください」と言えるものは何ですか?



パティパダーNo.1 (1995年3月創刊号)巻頭法話より
A・スマナサーラ長老

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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
鬼も幸せでありますように。福も幸せでありますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/02/03 20:17
慈悲と智慧さん、ナイスですね(笑)。なんだか心がほんわか暖かくなりました。ありがとう。
かずみ
2011/02/03 20:49
あんさんありがとう。

今日は二回、コメントができます。

あんさんごめんなさい。

人のことを、信頼できるような、こころを持てるように、しっかりと自立したいと思います

たばこに関しては、人からどう思われても、私なりに、何度失敗しても、やめようという気持ちを、持ち続けます。

本当に、ごめんなさい皆さん、もっと正直に、しゃべれるように、という言う気持ちで生きていきます。

もっともっと正直になりたいです。

生きとし生けるものは、幸せでありますように。
才木広之
2011/02/03 20:49
素直な心は素敵です!

生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/02/03 21:07
(続き5)

 昨日、米長棋士が運がよくなる方法として、「自分にとって大切な一番ではないけれども、相手にとって大切な一番で絶対に勝つ」というようなことを述べていることを書きました。

 そして、それは激しい競争心の現れではなく、「八百長(少なくとも無気力将棋)を封ずるところに真意があると思う」というようなことを書きました。

 確かに、米長棋士には、仏教的に観て道徳的でないと思うところもあります。

 しかし、米長棋士は、@大山・升田時代→A中原・米長時代→B谷川時代→C羽生時代(その最強のライバルの一人とされているのが佐藤康光棋士)という将棋世界では、その時代のトップに立たれた第一人者です。

 私は、将棋界でいう米長棋士に匹敵するスポーツ界の第一人者の方と仕事でお話させて頂いたことがあります(既に引退。しかし、引退してまだそんなに経っていないころ)。

 その方は、自分がその自分が所属したスポーツ界を将来は引っ張って行く存在になるということを自覚されておられました。

 そのためにそのスポーツ界に所属する人々、あるいは、ファンのために何をしていったらいいのか、極めて明確なビジョンをもって、また具体論をもって語ってくださいました。

 米長棋士も同じような自覚をお持ちだと思います。

 なので、米長棋士の文章を読む時は、このような将棋界を背負っているという自覚を背景に文章を読まないと、間違って文意、つまり、「伺」を捉えてしまうように思います。

 http://77713696.at.webry.info/201101/article_31.htmlのあんさまのブログ記事本文で、スマナサーラ長老は、「自分で書いた本を読んでいるつもりで読むのです。『まず主観的に読んでください』とよく言いました。」と説かれています。
ヴィーナス
2011/02/04 06:29
おはようございます。

最後の?集は、なるほどと思いました!

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/02/04 08:30
 答え(の一部)。

 @quiet・qの時代→A恩返し・おんがえしの時代→Bご紹介の時代→CYの時代。

 ちなみに、上に述べたスポーツ界の第一人者の方は、米長棋士のように特定分野の人に有名な人ではなく、日本国民ならば、ほとんどの人が知っているような有名人です。
ヴィーナス
2011/02/05 07:01
 私は、将棋が数学に似ているという話をしてきました。

 今、NHKで将棋をやっていますけど、対戦しているプロ棋士の一人が渡辺明竜王ですね。そして、解説者が森下卓棋士です。http://www.kodomononaraigoto.net/totsugeki/06index.html
 
 渡辺明竜王は、「僕は、どちらかというと現代国語や日本史が好きでした。数学は人並みにはできたけれど、率先してやろうとは思いませんでした。」と述べています。http://www.kodomononaraigoto.net/totsugeki/06index.html
 
 また、森下卓棋士は、「棋士には数学が得意な人が多いと聞きますが。」という質問に対して、「私は本を読むのが好きで、得意科目はむしろ社会や国語の方でした。」と述べています。http://www1.tcn-catv.ne.jp/acc/hito/hito/54morishitataku.html

 しかし、将棋は数学に似ているという趣旨のことを述べたトッププロ棋士がおります。

 それが誰であるかがなぞなぞの一部に関連します。

 ちなみに、私の記憶ですが、このトッププロの他、確か、大山、中原、谷川といった時代を代表する棋士は数学が得意(あるいは数学と将棋は似ていると考えていた)だったのではないかと思います(今、ちょっと調査していますが、探しきれないかもしれません)。
ヴィーナス
2011/02/06 11:25
 http://www.kodomononaraigoto.net/totsugeki/06index.html のURLを間違えて2つ貼り付けてしまいました。前の方は不要です。
 なお、数学者の藤原正彦氏は、「詰め将棋はロジックそのものである。」と述べておられ、「しかし、受験科目でもっとも論理性が求められるのは国語である」とも述べておられるそうです。http://harukaharuka.at.webry.info/200905/article_3.html

 私も受験科目ということであるならば、つまり、受験に限定するならば、あるいは国語が一番論理性が高いように思います。

 それから、詰将棋は、ロジックそのものであり、あるいは、数学以上に論理的なのかもしれないとも思います。

 ですが、優れて美的というか芸術的というかそういう美しさもあるように思います。

(数学について、小説を読まれることを勧められていた(?)新さまに配慮してこのようなコメントをしています。ただ、なぞなぞの主題は、その点にないことは直前のコメントで述べたとおりです。) 
ヴィーナス
2011/02/06 11:49
 続きです。

 受験に限定するならば、数学の藤原先生が述べるように、国語が論理性が高いと思うのはこういう理由からです。

(少し自慢話ぽく聞こえるかもしれませんが、中学国語の話ですので大したことはないものとしてお読みください)。

 このコメントを読んでいる人の多くは、大学、せいぜい大学院くらいまでしか国語の受験勉強をしないと思います。私もそうで、大学受験までです。

 それで、大学卒業後だいぶ経ってからのことです。
 親しい人が、ある大手塾関係の仕事をしていて、中学国語の問題を持ってきたのです。あるいは、どこかの高校入試の問題だったかもしれません。

 私は、答えを全く見ないで解いて、満点だったと思います。
 
 その親しい人には驚かれました。
 
 それで、その解法プロセスを教えたら、「講師ができる」というようなことを言われたように思います。

 国語は論理なので、論理のプロセスを示しただけです。後で解答を観ましたが、論理プロセス以外のことがごちゃごちゃ書かれていて、これでは分らないだろうなという感想を持ちました。

 国語は、既に皆「尋」は持っているわけで(古文、漢文は除く)、結局「伺」を如何にうまく捉えることができるかということが大切なように思います。
 出題意図を如何にうまく捉えることができるかということが大切なように思います。
 
 国語の場合、「伺」の論理があるように思います。もちろん、それは「尋」を手掛かりに読み解くわけですが。

 詰将棋はダイレクトに「伺」の論理を扱いますので、「伺」に強くなると思います。

 受験数学は、勿論「伺」は大切ですが、「尋」のウェイトが強いと思っています。
ヴィーナス
2011/02/06 15:20
 「人生、惚れてこそ」(米長棋士との対談本、クレスト社)88頁において、

 『羽生善治』名人は、「数学(算数)と将棋というのは似ているところがありますね。」

 と述べています。

 これがなぞなぞの一部の答えです。

 それで、ついでですが、一時代を築いた谷川棋士は、「得意な数学」と述べています(「集中力」角川書店138頁)。

 また、同じく升田棋士と一時代を築いた大山棋士は、

「プロ棋士になる少年は、数学が得意である。

 将棋は記憶・推理・創造ということが欠かせぬ要素であるから、数学をにが手とする人には向かないだろう。

 小学校のとき、私も数学の先生になれと勧められたが、それを断って将棋の道に飛び込んだ。」

と述べておられます(「勝負のこころ」PHP文庫116頁)。
ヴィーナス
2011/02/06 21:18
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