幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ※「死」を認めて智者になる

<<   作成日時 : 2011/03/12 07:44   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 10 / トラックバック 0 / コメント 15

仏教には、効果的に、死を認める方法があります。
「死隋念」という瞑想です。上達すると自動的にヴィパッサナー冥想に変わります。

身の回りには、死ぬこと、壊れること、変わることの情報が嫌になるほどあるでしょう。
そのとき、他人を自分に置き換えて、

「死隋念」を実践するのです。


 誰かが自動車事故で死んだら、修行者はそのとき無関心にならない。

「これは自分にもあることだ」と自分のこととして受け止める。
「自分の身も、必ず同じことになるのだ」と。


このような方法で自分の死を向き合うことが、死隋念になります。


mara natth okasam vadhako viya esati
チャンスを見計らって、死は殺戮者の如く常に側にいる。



賢者も愚か者も、老人も赤ちゃんも、貧乏人も金持ちも、
権力者も弱きものも、誰でも死にます。

いつ死んでもおかしくないのです。


昇る日は必ず沈みます。生まれたものは必ず死にます。

画像




生は死とともに現れるのです。お母さんのお腹から出てくるとき、
葬式を用意してお、気が早いということがないほどなのです



「水に書いた字の如く命は儚いもの。石に彫った字の如く死のみ確実」なのです。


Jivitam aniyatam maranam niyatam
生きることは大変だが、死はいつでも起こり得る。



あらゆる例えを使用して自分自身が確実に死んでゆくものだと理解するべきです。


「生きること=死へ向かうこと」と理解するべきです。

「どこへ行くの?」

「死へ行くのですよ」

これはどんなときにでも、100%正しい答えです。
すべての生命は、死に向かって生きています。

踊りながら死へ向かうのです。

家のドアを開けながら死へ向かうのです。

笑いながら死へ向かうのです。

無駄話をしながら死へ向かうのです。



これはなにも暗い話ではありません。
医学的に正しいのです。

このように何事につけて「死に向かっているのだ」と理解することが、
死隋念になります。

無常を知ることにつながります。


真に幸福に生きることにつながるのです。



<P196〜P197>

「無常の見方」A・スマナサーラ長老著書より

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コメント(15件)

内 容 ニックネーム/日時
今日読んで少し思い出しました。

論理的すぎて、読むのをやめたシリーズでした。

屁理屈が多いわたしにとっては、あまり読まないほうが良いではないかという感じでしょうか。

ますます、へ理屈が増えそうで、読むのを控えたのか、真理を論理的に説明され、逃げだしたのか。

どちらもあるように思います。

人びとの悩み苦しみを感じつつ、真理を自分は論理的に知っていく。
才木広之
2011/03/12 08:43
おはようございます。

「困った時はダンマパダ」にワンギーサによる「箭経」の短歌化があり、それが覚えやすくてよかったです。

スマナサーラ長老のDVD『あなたの命が、もしあと一日だったら』はさらに詳しく「死」について解説されていて、必見です。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/03/12 09:07
近所のビルがあわや倒壊でしたが、無事です。

被災された方々には、こころからお悔やみ申し上げます。

昨日から今日に掛けて余震が凄く、携帯の災害メールが夜中中鳴り響きました。

生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように。
慈悲と智慧
URL
2011/03/12 10:06
地震で多くの人が亡くなられましたね。
Sunrise
2011/03/12 23:21
そちらはまったく関係のない事かもしれないですが、震災の遭った翌日に出す話題としては非常識極まりないものだと思います。
「津波は天罰」と言い放ったどこかの都知事と同じくらい、愚かな行為であると認識されていただきたいと思います。

今、東北では、こんなテーマは非常識ですよ。

東北被災地より
2011/03/15 23:33
わたしはこう思います。

ブログ管理者さんは、自分が被災地にあっても、

同じ内容を書かれたと思います。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
才木広之
2011/03/16 19:19
どこで、どのような災害があっても、戦争があっても

ここにいても、どこにいても、関係ありません。

今目の前で出来ることをするのみです。

今目の前にできること、それに徹すること、

逃げでも何でもなく、それしかできないのです。

生きとし生けるものが、幸せでありますようにと願う心を育てます。

生きとし生けるものが、幸せでありますように
才木広之
2011/03/16 19:22
死、何事も無常であることが認められれば、
気持ちが落ち着きますよね。
ryusso
2011/03/17 08:50
>才木様

>どこで、どのような災害があっても、戦争があっても
>ここにいても、どこにいても、関係ありません。

そうですか。
では、あなたが今すぐこの陸前高田の避難所に来て、避難民の前で、その愚なセリフを言い放ってみてください。
「生きとし生けるものが、幸せでありますように」
そう言ってみてください。そうしたら、私はあなたを認めます。

そして、氷点下の寒さと、物資食料が深刻に不足し、身寄りのない孤立した避難生活をしている何万人の前で、
「これが、私が被災の遭った翌日3月12日に書いたブログです。タイトルは『「死」を認めて智者になる』です、ぜひ読んでください。」

そのように言えるのですか?

言えるのですか????_?!!!ええ!!

東北被災地より
2011/03/18 11:34
被災地の皆様

このような事態の時に
『死随念』のテーマを出して申し訳ございませんでした

皆様の事を思うと
胸が痛む毎日でございます

一刻も早く
現状の回復を願っている次第です

私に出来る事

それはわずなか義援金を出させて頂くこと

仏教での教えを実践すること
でしかありません

皆様の幸せを願い
情報に耳を傾けております

生きとし生けるものが幸せでありますように

あん
2011/03/18 16:43
こんばんは。

では、どのような場合なら「死についてのテーマ」が非常識でないか?を各人が検討する必要がありそうですね。

このような大災害でなくとも、病院では人は死に、それを悲しむ人々が日々絶えません。

世界をみれば、戦争、暴動、天災、餓死等々の出来事が日常茶飯に起きてます。

つまり、死とそれを悲しむ人は常に存在するので、どのような条件なら、「死をテーマにすること」が常識的と言えるのか?という疑問なわけです。

単に規模の大小がある程度の条件だとすると、稚拙な気もするからです。

各人が考える問題だと思いました。「死」は仏教ではタブーにしてはならない話題だと思うからです。

2011/03/18 21:20
兵庫県山東町という所に家があります

大工ですので、八年前ぐらいに建てた自分の家です

今は実家に両親と住んでおり、新築のまま空き家になっている、自分の家です。

わたしの電話番号は

090ー5969ー7337です

このようなわたしに、何かさせていただくことができることがありますでしょうか

陸前高田の避難所の皆様に対して、何もできなく

身の回りの生き物を、殺さないように注意することしかわたしには出来て居りません。

それでも、生きと生けるものの一部分で、生命は皆つながっております。

身の回りの、生きとし生けるものが、幸せでありますように。と願うことで、

僕は、身の回りの小さな小さな、目に見えるか見えない、生き物にも注意しようということしかできません。

生命はつながって、それで生きもでき、生かされもします

ですからわたしは身の回りで出来ること、生命を殺さないよう、気をつけるよう、

生きとし生けるものは、幸せでありますようによ言う心を育てたいと思います。

才木広之
2011/03/19 00:08
はじめまして。

HPを拝見させていただき、見過ごせない一句を目にし、コメントを入れさせていただこうと思い立ちました。

二つ前のコメントに、『日常茶飯事』という語句を目にいたしました。

『日常茶飯事』とは、辞書で引いてみると、[ありふれたこと]と記されています。
さて、ここで話題に挙げられている東日本大震災をも、この『日常茶飯事』というカテゴリーで収められる理論展開には、深く違和感をおぼえざるを得ません。

この震災は日常茶飯事ではありません。悲しむべく非日常の事態であります。
また、『単に規模の大小が…』という見解には、有事軽視と解する読み手も居る事でしょう。

仏教の中での死を考える事に対する見解がどうであれ、そのような発言をこの不特定多数が閲覧するスペースに載せる前に、今、人類社会として同じ国に生きる者として、やらなければならない事を考える事が先決ではないでしょうか?

そして、私は仏教の世界に精通した人間ではありませんが、思う事として、「教え」とは、それにすがるものでは無く、それに到達するべく努力する事のように私は思います。
小松のりこ
2011/03/19 12:45
こんにちは。

仏教では「心」を重視していると思います。

特に、冷静さは重要なひとつです。やるべきことも、心が感情的で混乱していたらわからなくなります。

そもそも、「死を念ずる」というのは、死を色々と解釈しないで、事実として受け入れ、その結果「自らの心の安らぎ、平静」を求めるものだと思います。

そして、それをするかしないかも各人の自由だと思います。それで、心が混乱するようなら、やらなければいい。だけのことだと思います。

慈悲の瞑想にしても「私の嫌いな人々が幸せでありますように」という文句で気分を害す場合はやめたほうがいい。という趣旨のことをスマナサーラ長老はおっしゃっられてます。

慈悲の瞑想も自分自身の「心の汚れ」との闘いであって、実際に困ってる人を助けることとは異なることだと思います。各人に出来ることは限度がありますが、慈悲の心は無量に育てることが出来るそうです。

「死随念」も対象は自らの死が基本だと思います。

よく誤解されるのですが、「死は確実」だからといって「困ってる人々を放っておけ」などとは、仏教の教えではないと思います。

スマナサーラ長老と初めてお会いした時「仏教にはボランティアという概念はない。それはあまりに当たり前のことだから。」ということを話されてました。

スマナサーラ長老のもとで仏教を学ばれてる方は、それとなく手を差し延べておられると思います。

そして当然のことなので公言されてないだけでしょう。

日常茶飯は「絶えない」という意味で使用してます。

それを根絶するにはまずは「自分自身の心の汚れ」をなくす必要性があると思います。そのための瞑想だと思います。

2011/03/19 14:00
長老は言葉でコミュニケーションは
難しいとおっしゃっておられました。
解釈はいく通りでも成り立つのです。
各々が主観で解釈するわけですから。

冥想で穏やかな気持ちになれることを
智慧を開発することをお釈迦様は教えて
おられます。
拝んだりすがったりの行為は全くの無意味だと
いうことです。

生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/03/19 18:26
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