幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ○刺激への執着

<<   作成日時 : 2011/05/11 06:32   >>

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★生きるとは刺激を受けること
生きる事に目的はないと書きました。
では、生きることの定義はなんでしょうか。
刺激を受けると生きている気がします。

これは、生きるということの、仏教科学的な、非常に厳密な定義です。

眼・耳・鼻・舌・身・意という6つ感覚器官、6根に、色・声・香・味・触・法
というデータ(6処)が触れます。

そうすると刺激が生まれます。

たとえば、眼には形が映り、耳には音が触れて、刺激を受けます。
この刺激を受けるということが、生きているということなのです。


もし、見えない、聞こえない、匂いを感じない、味わえない、身体に触れても感じない、
意識すらもないなら、その人は生きていると言えるでしょうか。


6根には、「意」が含まれていることに注意してください。
意識が起こると、脳の中で電気が流れます。

現代の医者は、脳に機械をつけて、脳がきちんと動いているかのチェックをします。


もし動いていなければ、それは死んでいるということです。

ですから、眼・耳・鼻・舌・身・意に情報が触れて、刺激を受けたならば、
その人は、生きているといえます。

つまり、「生きている」とは、「刺激」という一言で言い換えられるのです。
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★心は刺激を受けて生滅変化を繰り返す
心は刺激を受けて、そのエネルギーで生滅変化の流れを
絶えず続けます。
我々は、生まれた時からずっと、同じように生き続けていると錯覚するのです。

しかし、刺激は、絶えず変化し続け、同じものはありません。

 たとえば、子供のときと、大人になってからでは、見るもの自体が違います。
刺激を受ける対象は変わってくるのです。

刺激も次から次へと変わるのです。

我々の目の前には、大量の刺激が暴流となって流れています。

この流れは途切れません。

噴水が上がり続けている状態と同じです。
しかし、噴水の水一粒一粒別のものであるように、
個々の刺激もまた同じものはないのです。


現代では水を循環させているので噴水を例に出すのは少し苦しいのですが、
川の水を引いてつくった噴水の場合、噴水自体はそこにずっとありますが、
同じ水は二度と流れません。

刺激もまた同じです。

心とは何か特別に大切なものではなく、
感覚器官に対象が触れて起こる刺激にすぎません。

刺激を受けて、エネルギーが生まれ、次の刺激に触れる準備をしています。


ですから、心は、法則的に止まりません。

刺激に触れると心が現れます。
そして、データは常に目の前にあります。


たとえば、意識をして見ていても、ぼんやりとしていても、目を開けている限り、
データは絶えず眼に触れています。

そして、ぼんやりしている時でも、脳にきちんと反映されていることは、
科学的にも実証されています。
このように、我々は絶えず刺激に触れているのです。


我々は、こうして受け取ったデータを、主観を通すことによって常に捏造します。

ですから、知識というものは、完全に捏造されたデータなのです。
捏造は、意識して、たとえば何かをじっと真剣に見るときに起こります。

意識して見ていない、単に目に映っているという場合は、
ただ通り過ぎるだけで、データは捏造されません。


本当は、ありのままの捏造されていないデータを認識できれば、
悟りに達するのですが、そういう訓練をしていないので、
データを捏造してしまうのです。


「自立への道」<P158〜P160>
A・スマナサーラ長老著書

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