幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ▲念処経講義から

<<   作成日時 : 2011/05/30 05:54   >>

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<念処経とはどんな経典か>
ブッダが説かれた「気づき」の実践方法

はじめに、「念処経」という経典の名前について説明します。
パーリ語ではsatiは「気づく」「何かを作る方法」「建てる方法」「やり方」という意味です。
「sati実践方法」という意味です。

これは、satiをいかに実践すればよいかという、satiそのものについて
説かれた教典なのです。では、原文を最初から読んでみましょう。

(原文は上手く表記できないので省きます)
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1、このように私は聞いた

 あるとき、世尊は、クル国の、カンマーサダンマというクルの町の
近くに住んでおられた、そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。


2「比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、
憂いと悲泣を乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたり
見るための一道です。すなわち、それは四念処です。

四とは何か。

比丘たちよ、ここに比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、
念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

もろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、
世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

もろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における
貪欲と憂いを除いて住みます。
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如実に観るということ・・・・


正しい観察の仕方という意味で、パーリ語でいつでも使うのは
yathabhutam passati「如実に観る」という言葉です。
日本語でよく人気のある。

”ありのままに見る”という言葉はその訳です。
日本語では一般的な言葉になっていますが、その意味は全然解かっていないようです。

「ありのままに見る」というと、ただボケーッと見る事だと勘違いしているのです。

仏教の世界では、「ボケーッとして放っておいて見る」ということでは、
ありのままに見ることにはなりません。


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念処経は唯一の「実践」を説く

この経典の総説では、「一つの道」ということを説いています。

「念処経」はいろいろな思想に関係ある経典ではないので、勉強する場合、
あまりゴチャゴチャ考えなくてもいいのです。

なぜならば実践論を語っているのですから。
お釈迦様が教えていた弟子たちは、論理のセクションはもうとっくにマスターしていた。

次に教えをどのように実践するのか、という段階で「このように実践しなさい」と
説かれた教典なのです。

論理的に真理を教えたうえで、
その真理を証明する実践を教えているのです。
弟子たちがよく勉強して教えを理解したところで、

我々が苦しみをなくして涅槃に至るためにはどうすればよいかと問えば、

「一つの道」しか答えがないのです。

この経典は仏教をよく知って理解した人に向けて、
覚りの境地を得るためにこうするのだ、他の方法はないのだと教えているのです。
画像


<P40〜P50>パティパダー5月号


愁いと悲泣を乗り越える


お釈迦様はごく普通の人間で、歳も取ったし、病気にもなりました。
「覚ったのにどうして病気になったのか」とか、
「なんで身体が痛い、痛いと言っているのか」とか疑問に感じる人も
いるかもしれませんが、

覚るというのは、そういう意味ではないのです。

だから苦しいことは確かにありました。
「苦しいことはあったけれど、それは悲しみに至らなかった」という話なのです。


お釈迦様は優秀なお弟子だったサーリプッタ尊者とモッガッラーナ尊者が
亡くなった時、まるで自分の両腕がなくなった感じがしたそうです。

やっぱり寂しいのです。

お釈迦様はあと何年か生き続けるでしょう。
自分もお歳だから、誰かが助けてくれた方がありがたい。

お身体の世話は誰にでもできますが、説法の世界、弟子の指導の分野で
活躍していたお二人が先に逝ってしまって、
お釈迦様の心に開いた穴がよく分かるのです。

わかるけれど、お釈迦様はそういうことにはビクともしないのです。
でも「何か、今の比丘たちを見るとすごく寂しいのだ。
空しく感じるのだ。太陽とお月様が消えたような感じだ」とお話はする。


自分の弟子たちを見回しても、あの二人がいないのですから。


そこはお釈迦様の人間としての素晴らしさなのですね。

両手がなくなったような感じだ、という事実を語っても、全然落ち込んだり
することはないのです。

ですから仏道修行するからといって、何から何まで奇跡に富んだ人生に
なると思ったら、それは間違いなのです。

この道を実践すれば愁いと悲泣は乗り越えられるのだ、ということは
「実践したものには愁いと悲泣はない」ということでしょう。


人間にとって愁いと悲泣とは何かといえば、子供が死ぬこと、
親戚が死ぬこと、財産をなくすことでしょう。

地震が来てすべて消えてしまえば、そういった苦しみが
一番劇的に味わえるのです。

地震が来なくても、病気になったら人間は苦しんだり悩んだりする。

会社が倒産したりリストラされたりしたら、かなり苦しみが出てくる。
「念処経」を実践すればそういうことはなくなるのです。


地震が起きたらsatiを実践する人と、実践しない人には
差があるのだということは事実です。

実践しなかった人はひどい愁いと悲泣に陥ってもう立ちあがれなく
なってしまう。しかし、satiを実践している人は、
別に何のこともなく、その時その時のやるべきことをやって
ずうっと生きているのです。

寂しい出来事が起これば、その人も寂しいのです。

冬の外気に当れば、その人も寒いのです。

そこで気づきを実践することで、愁いと悲泣を乗り越えることです。
生きることそのものが苦です。

念処経を実践する人々は、いろいろな悲惨な事件や災害といった苦に
遭遇しても、愁いと悲泣が心に生まれないのです。(つづく)


<P37〜P38>
A.D.2011 パティパダー6月号より

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