幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ◆不幸なのは、いまだけ

<<   作成日時 : 2011/06/22 06:49   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 13 / トラックバック 0 / コメント 6

無常だから、不幸になっても一時的です。
喜びがあっても一時的です。


「諸行無常」と聞くと、「なんだかむなしい」
「暗い気持ちになる」と反発する人が多いのですが、
それは「無常」と「無」を混同しているからです。



「諸行無常」の「行」とは
「原因によって組み立てられた現象」のことであり、
お釈迦さまは
「すべての現象は原因によって組み立てられたもので、
つねに変化しています」
と説いているのです。




「この世の中にあるものすべてが変わり続けるなら、どうせ
何をやってもムダだ」と投げやりになりますか?


それは大きな間違いです。

画像


すべてが瞬間も止まらずに変わり続けるからこそ、変わり方や
その方向性を自分の力で調整することが可能なのです。


無常だからこそ、努力が実り、人は成長できるのです。


すべてのことが起こるのは、この世が無常であるからです。


そして、起きることの善し悪しは、たやすく判断できるものでは
ありません。


健康であっても病気になり、病気になっても治すことができるように、
幸福も不幸も一時的なものだと知りましょう。

変化のない状態こそ地獄です。

無常という事実にもとづいて生きるからこそ、明日に希望を見いだせ、
元気でいられるのです。






「こころを清らかにする言葉」
アルボムッレ・スマナサーラ長老著書より



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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
【アーチャン・チャーのことば】気づきを保ち、物事をその自然なままにさせておきなさい。そうすれば、どんな環境にいようと、あなたの心は透明な森の池のように静まっていきます。
慈悲と智慧
URL
2011/06/22 19:20
 アーチャン・チャーのアーチャンは先生という意味だと聞いています。

 しかし、スマナサーラ長老は、アーチャン・チャー長老の「手放す生き方」(サンガ)という本の帯書を書かれるにいあたり、アーチャン・チャー『大』長老という表現を用いられました。http://www.samgha.co.jp/products/shinkan/tebanasuiki.html

 日頃、そのようなことを仰られた記憶はありません。

 次の法話の内容に照らしてみても、アーチャン・チャー長老は阿羅漢聖者であるということを仰られたのだと思います。
 http://gotami.txt-nifty.com/journal/2008/01/post_d8e7.html
 http://gotami.txt-nifty.com/journal/2008/02/dhammacast_97b7.html

 なお、「長老」という言葉は悟った方の意味でも使うことがあると理解されます。http://www.j-theravada.net/howa/howa152.html
 その意味で、私はアチャン・チャー長老と呼ばせて頂いております。

 但し、今、日本人の比丘の方を、長老という場合は、単に年季が入ったお坊様に与えられるタイトルであり悟っているかどうかとは無関係です。文脈によって意味は異なります。

 スダンマ長老という場合は、私の場合は前者の意味で用いています(もちろん、スマナサーラ長老もです)。スダンマ「師」とか「比丘」とかは決して言いません。

 スマナサーラ長老がアーチャン・チャー長老を阿羅漢聖者と仰られたならば、スマナサーラ長老も阿羅漢聖者であられることになると思います。この点は、http://www.j-theravada.net/qa/qahp25.html
ぶんぶん
2011/06/23 06:46
人のことよりも、自分のことが大切。
自分が今何を行ってるか、どのような心か、客観的に自分を見つめれば、もう自分も、他人も無いはずで、
さすれば、自分のことを、せっかくの掲示板なのだから表現すれば、良いのだ。仮に私の説明を他人にしてほしいとはぜんぜん思わなく、むしろ噂話みたいで迷惑である、持ち上げられるのも、引き下げられるのも迷惑な話なのである。自分のことをどう思うかは、人それぞれであり、放って置くしかなく、自分が良い方向へと変化なり、逃げるなり、人からの評価でなく、自分自身が清らかな心になれば良いだけなのである。
それは、皆に通じることであると、思うのである
才木広之
2011/06/23 21:13
 慈悲と智慧様のブログに「追加」のコメントをしました。

 あんさま、choさま、F禅師にはお読み頂けたらと思っています。http://ameblo.jp/jihitotie/entry-10927386164.html

 それと、そこで引用元を示し忘れたのですが、慈照さまの引用文は、http://gotami.j-theravada.net/2008/10/post-229.htmlにあります。「三田新精舎講堂起工式と戒壇お布施式のご報告」です。

 私が、慈照さまの言葉を引用した後、それに関連して、慈悲と智慧様のブログに

 「我々の仲間内では(大きな)法要では雨が降らないと言われています。
 で、そういう噂がたったら少し雨が降ったりしたんですけど。でも、それは通力があることを分からないようにすることだと思っています。探りを入れる人がいますから。」
 と書きました。

 この少し雨が降ったという事例がマーヤーデーヴィー精舎における入佛式、比丘サンガへの精舎お布施式、サラナンカラさん出家式、ウェーサーカの集いが4つもまとめて行われたマーヤーデーヴィー精舎の大法要です。

 ちなみに、今月号のパティパダーにおいてマーヤーデーヴィー精舎において聖水をかけておられるスマナサーラ長老の写真がありますが、東京でスマナサーラ長老が聖水をかけられたのは私の経験ではありません。写真でも観たことはありません。
 東京で経験があるのは、スダンマ長老が聖水をかけられたという事例のみです。写真もそれ以外には知りません。

 ※ 私がスダンマ長老を悟った方と思うのはあくまでデータに基づく推測です。スマナサーラ長老がアチャン・チャー長老を阿羅漢聖者と示唆されるのは断定だと思います。
ぶんぶん
2011/06/26 14:59
 昨日慈悲と智慧様の上記ブログアドレスにもう一つ「追加」コメントをし、本日別記事に3つコメントしました。
 あんさまにはお読みいただけたらと思っています。http://ameblo.jp/jihitotie/entry-10928397135.html#cbox

 そのコメントとの関連で、私のコメントを読まれた後、ワンギーサさんがスマナサーラ長老に質問された次のスマナサーラ長老の説法もお暇な時に、お聞きいただければと思っています。http://gotami.j-theravada.net/2006/09/dhammacast-35.html
 ちなみに、上のブログアドレスコメント欄で、ワンギーサさんを批判するようなことは一切書いておりません。
 
 上のスマナサーラ長老の説法から、お釈迦様がいくつかの言語で説法されたこと、比丘方にもそうするように説かれていたことが明らかだと思います。要は、説法の相手の持っている概念に合わせて説法するという対機説法の真髄がここにも観られると思います。

 そして、もちろん、パーリ語でダイレクトにお釈迦様が説法された場合もあると思いますが、お釈迦様がパーリ語以外で説法された場合も、アーナンダ尊者が聴かれた場合にはパーリ語になっていると私はスマナサーラ長老の説法を理解しました。

 最後の方(ほう)、おそらくパーリ経典は、釈迦族の言葉ではなくマガタ国の言葉とテーラワーダの伝統とされているが、スマナサーラ長老はコーサラ国の言葉と思うという説法だと思います。
 
 明確な証拠もなく話されており、私が、前の前のブログ(既に廃止)で、データを挙げながら述べましたスマナサーラ長老は、過去世でお釈迦様の直弟子であられ、第一経典結集の頃の記憶があると推察されるという説のまた一つの裏づけとなっていると思います。
ぶんぶん
2011/06/28 13:05
 慈悲と智慧様のブログに本日2つコメントを追加しました。http://ameblo.jp/jihitotie/entry-10928397135.html#cbox

 タイトルは怪しい法話Cと怪しい法話Dになります。ちなみに、上の私のコメントは怪しい法話Aに関連します。

 なお、そこで引用したURLにおいて、デニヤーイェ長老が、石に霊がつくということも仰っておられますが、疑問に思います。

 また、既に上記慈悲と智慧さんのブログURLのコメント欄タイトル怪しい法話Bに書きましたが、デニヤーイェ長老は、霊は肉体を持たないから肉体を求めて憑依するという理論をとられておられるようで、総合すると、霊は物質を求めるという理論のようです。

 しかし、スマナサーラ長老がしばしば仰っておられるのは、目に見えない異次元の生命が、当人のもっている心の波動にひかれてやってくることもあるけど(煩悩組合の一種だと思います)、本人が慈悲の瞑想をしたり、ヴィパッサナーをするなりして、慈悲の波動、智慧の波動を出していれば、何もすることはできないという趣旨のお話だと思います(ただし、表現は私の表現です)。
 
 あくまでスマナサーラ長老は、心に着目して説かれていると思います。

 そして、しっかりと善の心を持っていれば、さらには、解脱まですれば、悪い異次元の生命は、我々に悪影響を与えるような手出しをすることはできないということだと思います。ですから、恐れることは何もありません。
 
 しかし、霊には、肉体がなくて、肉体を求めて憑依するとなったら、こちらは何もすることはできず、人々が不安になるように思います。
ぶんぶん
2011/07/26 12:02
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