幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ○静止しつつ、流れつづける水(1)

<<   作成日時 : 2011/07/27 07:06   >>

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◆生きた仏教の教え
アチャン・チャー
静止しつつ、流れつづける水(4)
ダンマ(法)は遠く離れたところにあるのではありません。
私たちと共にあります。
ダンマは天界など高次元の神々についてのことではなく、
まさに私たちについて、たった今
私たちがやっていることについてのことです。


ご自分を観察してみてください。
幸せなときもあれば苦しいときもあり、楽しみがあれば
痛みもあり、愛情もあれば憎しみもあるでしょう。
こうしたことがダンマです。

このダンマを理解すること、そして自分が経験している
諸々の感覚を理解することが大切なのです。
(前号から続きます)


「このガラスのコップを割らないで!」と、人は言います。
でも、割れる性質のあるものを、割れないようにすることは
できるのでしょうか?

たとえ今割れなくても、後で割れるでしょうし、
あなたが割らなくても、ほかの誰かが割るでしょう。


ほかの誰かが割らなくても、ニワトリか何かが割るでしょう!


お釈迦様は、このことを理解してください、と教えられました。


お釈迦様は、ものごとの本質を鋭く洞察して、


「コップはすでに割れている」と見ていたのです。


私たちもコップを使うときはいつでも、コップはすでに割れている、
と考察すべきです。

おわかりになりますか?

お釈迦様の理解は、このようなものでした。
お釈迦様は、

割れる性質があるコップに、割れたコップを見ていたのです。
時がたてば、コップは割れます。
この種の理解を育てることが大切なのです。


//////////////


ダムをつくるときは余水路もつくらなければなりません。
水位が上昇して水が縁まで満杯になったとき、水路口を開けます。

そうすると、水は溢れることなく水路口から安全に流れ出る
ことができるのです。

私たちも、このような安全弁を持つことが大切です。

「無常」ということが、賢者にとっての安全弁です。
この安全弁を持っているなら、心にやすらぎがあるでしょう。



立っているときも、歩いているときも、坐っているときも、
横になっているときも、気づき(サティ)を絶えず用いて
観察し、心を守ってください。



このとき、心の落ち着き(サマーディ)と智慧があります。
サマーディと智慧は同じようなものですが、その側面は
異なるのです。



「不確実」ということを明確に見えるなら、「何が確実なことか」
ということが分かるでしょう。

「確実」とは、「ものごとが必ずこのようであり、それ以外は
ありえない」ということです。

おわかりになりますか?

私たちは、「不確実」ということだけを知ることで、
仏陀を知ることができ、また正しく仏陀を尊敬することが
できるのです。

仏陀を拒否しないかぎり、苦しむことはないでしょう。
仏陀を拒否するやいなや、苦しみを経験します。


画像



無常・苦・無我についての観察を拒絶するとすぐに苦しみが
生まれるのです。

無常・苦・無我、たったこれだけのことを実践することが
できれば、それで十分です。
苦しみは生まれないでしょうし、

生まれたとしても簡単に解決することができるでしょう。


さらには、将来において苦しみを引き起こさない原因にもなるでしょう。

苦しみが完全に生まれなくなったところ、そこで実践は終了するのです。


では、なぜ苦しみが生まれなくなるのでしょうか?


それは苦しみを引き起こしている原因(samudaya)が
解決されたからです。
<つづく>


「生きた仏教の教え」アチャン・チャー
Patipada A.D.2011  8月号より


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コメント(7件)

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 別所にコメントした文章を一部引用します。

(一部引用開始)

 …アチャン・チャー長老は阿羅漢聖者だと思います。

 ただ、アチャン・チャー長老はご入滅されているので、残念ながら、心の波動による瞑想指導はできません。

 なので、私はスマナサーラ長老の瞑想指導を勧めていますが、スマナサーラ長老の心の波動による瞑想指導を期待されるならば、スマナサーラ長老が仰るとおりにヴィパッサナー実践しないとその資格はないと思います。
 
 心の波動による瞑想指導は、すでに先に紹介したと思いますが、http://77713696.at.webry.info/201107/article_20.htmlのコメント欄にコメントしてます。

 2011/07/21 08:31以降のコメントになります。

 瞑想実践は、本から人ではなく、人から人に直接伝えられるというのは、アチャン・チャー長老も認めてくださると思っています。

(引用終わり)

 ヴィパッサナー実践が、お師匠様から弟子に、直に伝えられる、つまり、「人」から人に伝えられるのであって「本」から人に伝えられるのでないことについては、http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.htmlの5分の4あたりのスマナサーラ長老の説法を根拠として挙げさせて頂きます(Vipassanaa Bhaavanaa :(4) ヴィパッサナーの三原則〈2〉の項目の中の説法)。

 これは私が編集者の方が「よくぞ残して下さった」と思ったスマナサーラ長老の説法の数少ない一つなのです。この方がスマナサーラ長老を賢者として尊敬し、スマナサーラ長老の信任が厚いので、このような説法が残ったと思います。
ぶんぶん
2011/07/27 08:05
続き) この編集者の方は、http://77713696.at.webry.info/201107/article_25.htmlのコメント欄で述べた編集者の方と同一人物なのです。

 そこで述べましたように、仏教知識については博識な方ですから、微妙に慢が出て、スマナサーラ長老の御意向と微妙にズレが出ることもあるように思いますが、

 ヴィパッサナー実践については、そのようなことがなく、元々、スマナサーラ長老を深く尊敬しておられる心がズバッと出るのだと思います。

 もっとたくさん編集して頂きたいと思います。文章も平易で読みやすいです。

 世代交代ということで身を引くということをお考えなのかもしれませんが、スマナサーラ長老の御意向を忠実に反映する若い世代の編集者が現れるまでは、編集を続けて頂きたいなと思います。

 世代交代は後継者を残してから。
ぶんぶん
2011/07/27 08:23
 別所でこのようなことをコメントしたことがあります。

(引用開始)

 スマナサーラ長老は、龍樹の「中論」は確か1日で終えられたと伺った記憶があります。
 
 参考までに書くと、アビダンマ(アビダンマッタサンガはではない。あの難しいアビダンマ全部)は4日だそうです。

 なお、スマナサーラ長老は厳密に語られる場合(というか一般的にそう語られることが多いと思いますが)、部派仏教ということも仰られません。

 私が伝える元々のブッダの教えから部派仏教は分かれていったという感じです。
 
 一般的に語られたものとしては次のようなものがあります。http://www.j-theravada.net/pali/key-theravada.html(引用者註:これを編集されたのは上に私が述べた後継者が残すまで編集を続けて頂きたい方です)。

 上座「部」という言い方にも反対され、上座仏教でないといけないという趣旨のことを仰られたこともあります。
 「部」というのは、一つの主観的解釈を肯定することになり、客観的真理である元々のブッダの教えを伝えていないことを意味するからだと思います。

 スマナサーラ長老の仰っているのは、「私は元々の仏教を伝えている、そこから、大衆部であれ、部派仏教であれ、大乗仏教であれ、小乗仏教であれ分化していったにすぎない」、ということだと思います。

 そう言わなければ、ブッダの教えはどこかで失われたことになるのではないでしょうか?

 例えば、根本分裂で、上座部と大衆部に分かれたと言うならば、ブッダの教えがその時点で失われた、と言うことになると思います。

 少なくともそういう誤解を受ける可能性が大です。

(続く)
ぶんぶん
2011/07/27 12:40
続き) 上座が、元々のブッダの教えを伝えているならば、元々のブッダの教えから、大衆部が離れて行ったにすぎない、という論理の方がすっきりしますし、堂々とそう言わなければならないと思います。

 なぜならば、ブッダの教えは来たれ見よの教えであるところ、人々に「我こそはブッダの正当なる後継者として元々のブッダの教えを語っている。挑戦してみなさい。」という人でなければ挑戦する価値がないからです。

 「元々のブッダの教えである」と言っていない人に、挑戦する価値はありません。そもそも時間の無駄だから。

 そう言っている人の中に麻原みたいのがいるのかもしれませんが、それは各人が智慧の眼で判断するということでしょう。

 スマナサーラ長老は、一般の仏教史学者が語るような仏教史も当然御存じで、それは上に引用したURLからも伺い知ることができます。

 でも、その仏教学者の言うことは鵜呑みにはされなかったし、騙されなかったということだと思います。

 「言われてみれば、なるほど」とか、スマナサーラ長老の仰る方が論理的にすっきりすると感じる方もいらっしゃると思いますが、そのあたりを見抜ける人がスマナサーラ長老の智慧の鋭さを理解できる方だと思います。…以下、略。

(引用終わり)
ぶんぶん
2011/07/27 12:56
 しかし、スマナサーラ長老が編集者の意向に配慮して部派仏教にテーラワーダを含めたかに観えるものもあります。
 
 私はブッダの実践心理学6(サンガ)は持っていないのですが、石飛先生のブログによると、その中に、こういう説法があるようです。http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2011/02/post.html

(引用開始)

 「お釈迦さまの教えが部派仏教に分裂していったとき、現在テーラワーダ仏教だと名乗っているグループは、「お釈迦さまの主張は『分析を語る』ことだ」
と強調したのです。

(引用終わり)
ぶんぶん
2011/07/27 13:10
続き) スマナサーラ長老の著作の編集者の一人である事務局長は、現在のテーラワーダは、部派仏教の一派である分別部の流れを汲むものであるというお立場だったと記憶しています(協会の掲示板で述べておられました)。
 
 ブッダの実践心理学6を、仏教史が専門の事務局長が編集したかどうかはわかりませんが、どなたかそのような仏教史の知識がある編集者の方等に、長老が配慮された可能性が大だと思います。
 
 それとの比較で、先に引用したhttp://www.j-theravada.net/pali/key-theravada.htmlをお読み頂ければと思います。

 私が後継者を残すまで編集を続けて頂きたい方であるという気持ちが分って頂けるのではないかと思います。
 
 私は、現在のテーラワーダの多くの出家比丘は、事務局長の仰る通り、部派仏教の一派である分別部の流れを汲んでいると思います。

 しかし、スマナサーラ長老のような賢者のテーラワーダの長老方は、他の凡夫の上座仏教の長老方とは異なり、大衆部やら、部派仏教やら、大乗仏教やら、そういう分かれて行った『新』宗教の元となる、元々のブッダの教えを説いておられると思います。

(新宗教というのは対比のために使っている言葉でカルトという意味は含みません。新しい宗教という意味です)

 ここは、編集者のスマナサーラ長老に対するうわべではない心からの尊敬心を観ることができるリトマス試験紙のような部分だと思います。
ぶんぶん
2011/07/27 13:26
 さて、小乗仏教と大乗仏教サイドから言われて怒るのは、心の中では小乗仏教であることを認めていると思います。だからこそ怒るのです。大乗仏教の勉強をしてからテーラワーダに入った方に多いように思います。

 私は大乗を経由せずにダイレクトにスマナサーラ長老が説かれる仏陀の教えに入っているからだと思いますが、小乗と言われた腹が立ったことは一度もありません。

 Xさん(大乗仏教の譬え)が、Aさん(小乗仏教の譬え)を馬鹿にしているところで、Yさん(元々の仏陀の教えの譬え)が「私を馬鹿にするな」というのは、笑い話にしかならないと思います。

 Yさんは、堂々と、「私には関係ないね」と言っておればよいと思います。
ぶんぶん
2011/07/27 13:27
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