幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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<<   作成日時 : 2011/07/28 07:23   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 7 / トラックバック 0 / コメント 21

もし今このガラスのコップが原因で苦しみが生まれて
いるなら、その原因を取り除くべきです。
しかし、あらかじめ
「このガラスのコップはすでに割れている」と考察しているなら、
たとえコップが割れなかったとしても、
原因はすでにありません。


原因が無いなら、苦しみはもはや生じませんし、
苦しみは終わるのです。


これが、苦しみの滅とう状態です。

無常・苦・無我を観る、このポイントを超える必要は
ありません。

たったこのことを観るだけで十分なのです。
ご自身の心で、このことをよく考察してください。

画像


基本的に、人はどんな人でも行為の基礎となる
「五戒」(※註)を守るべきです。

三蔵経(Tipitaka)まで勉強する必要はありません。
まず、五戒を守ってください。


最初は間違えて戒を破ってしまうこともあるでしょう。
そのときはそれに気づき、その行為をやめ、
また新たに五戒を守るのです。

もしかするとまた何か間違いをして、戒を破ってしまうかもしれません。

そのときも破ったことに気づき、新たに立て直して、五戒を守ってください。


このように実践することで、気づきが育ち、より持続的に
気づけるようになるのです。


これはちょうどヤカンから水の滴が落ちるよなものです。

ヤカンをほんの少し傾けると、滴はゆっくりと落ちます。
ポトン・・・・ポトン・・・・ポトン・・・・。
ヤカンをもう少し傾けると、滴が落ちるのが速くなります。
ポトン、ポトン、ポトン・・・・。

もっと傾けると「ポトン」と落ちることはなくなり、
水が流れます。


では「ポトン」と落ちていた滴はどこへ行ったのでしょか?
どこにも行きません。「滴」から「流れ」に変化しただけなのです。


ダンマ(法)は、このように「譬え」を使って話したほうが
よいのです。

なぜなら、ダンマには形がないからです。
ダンマは四角いですか、丸いですか?

何も言うことはできません。


ダンマを話すことができる方法は、唯一、譬えを使って話すことなのです。


ダンマは自分から遠いところにあるなどと思わないでください。
自分と共にあり、また至るところにあるのです。


観察してみてください。
今の瞬間は幸せで、次の瞬間は悲しくて、また次ぎの瞬間は
怒っています・・・・・・。


すべてがダンマです。
見て、理解するようにしてください。

【註】五戒・・・・基本的な五つの道徳
   生き物を殺さないこと、盗みをしないこと、邪淫をしないこと、
   嘘をつかないこと、酒・麻薬など酔わせるものを摂らないこと。

「生きた仏教の教え」アチャン・チャー
Patipada A.D.2011  8月号より

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コメント(21件)

内 容 ニックネーム/日時
常に実況中継するならば、自然と行為が制限されますよね。例えば、何か美味しいものを食べいる最中でも、実況中継すれば、途中でもう食べなくてもいいや、と思います。
とうま
2011/07/28 11:06
 今、事務局長が、「この世は盲目なのです。 現実を観察する人はとても少ないのです。 網の罠を破って逃げられる鳥のように(ほとんど逃げられないという意味) 天界に行く人は少ないのです。 (法句経 ダンマパダ174)」と訳しています。

 これは私の非常に好きな偈文で、前に作っていたブログのプロフィール欄にも書いていたものです。

 この偈文についてのスマナサーラ長老の説法が、原訳法句経「一日一悟」93頁以下(佼成出版社)にあって、それも非常に好きな説法なのです(「一日一『悟』」の方です。「一日一『話』」の方ではありません)。

 好きというより、正確には喜びが自然に出てくる説法なのです。

 それで、サティという用語はあっても、ヴィパッサナーは経典には出てきていないのではないか?というような疑問を持たれた方もおられるかもしれませんが、幾つか私が知る限りでも、出てきているものがあります。

 その一つがこの偈文なのです。

 http://www.j-theravada.net/howa/howa89.htmlに原訳法句経「一日一悟」とは別のスマナサーラ長老の説法があります。その一番最後にこのダンマパダ174の偈文のパーリ原文が出てきます。

 その中に「vipassati」というパーリ単語があります。

 これは多分ヴィパッサナーの動詞形か何かだと思います。

 スマナサーラ長老の説法を引用します。

(引用開始)

 ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー」とは何でしょうか。

 パーリ語の「ヴィ」は「明確に」を意味し、「パッサティ」は「観察する、見る」を意味します。

 ですから「ヴィパッサナー」とは、「明確に観ること」。

 (引用終わり。「自分を変える気づきの瞑想法」サンガ86頁以下)
ぶんぶん
2011/07/28 19:58
 スマナサーラ長老は、ヴィパッサティとヴィパッサナーを同じように用いておられますね。

 だから、ヴィパッサティが動詞で、その名詞形がヴィパッサナーではないかと思うのです。

 このように、私はパーリ語もスマナサーラ長老の説法を通じて、体験を元に、こうやって推測などしながら、学んでいくやり方です。

 赤ちゃんが語学を学んでいくようなやり方に少し似ているかもしれません。

 先日述べましたアッパマーダが「気づきのある状態」を意味するなど(http://77713696.at.webry.info/201107/article_25.html)、スマナサーラ長老のような賢者からでないとパーリ語はお釈迦様の伝えたい意味では学べないと思います。

 以上のように、ヴィパッサナーは、パーリ経典に言葉があります。上の偈文は、ダンマパダですから、おそらく古い経典だと思います。
ぶんぶん
2011/07/28 20:05
「ブッダのおしえ・中村元訳」を読んでいると
彼が人々の苦悩をとりのぞこうとする努力が説かれています。
それは死の間際まで続いたので そこに悟りの意義をみいだしています。
かがわ
2011/07/29 04:35
中村元先生は「輪廻はブッダの教えを逸脱した論議ですから」と述べておられます(「人生を考える」青土社192頁)。

 また、そのすぐ後で、中村先生は次のような因果法則を否定するようなことも述べています。

(引用開始)

 業の思想も、当時のインド一般に認められていたもので、仏教が本当にそれを立てているかどうか分りません。

 大乗の空論者たちは、業とか輪廻は、結局、迷いのゆえに懐かれている観念であると言います。

 ですから、迷いが去ってしまえば、もう業もなければ輪廻もない。

 迷いがあるからそういうものを想定するのだと言うわけです。…中略…

 業の観念は、たしかにひとつの難点です。

 明治時代の思想家の西村茂樹は、「善因善果、悪因悪果」ということは、例外もあるがだいたいの傾向としてはそうだということではないかと言っています。

 その程度のことならば、仏教としても認められると思います。
 
(引用終わり)
ぶんぶん
2011/07/29 05:30
また、スマナサーラ長老は、次のように仰っています。

(引用開始)

 …この問題を解決するために中村元先生は「悟りというのは煩悩がなくなった状態ではなくて、その都度その都度、煩悩をコントロールして抑えている状態である」と説明しました。

 しかしその説明を学術的に正しいと認めるためには、「ブッダが完全たる解脱に達して、一切の煩悩を根絶した」という話を、虚飾として捨てなくてはならないのです。
 
 誘惑の話は一カ所でしか出てきませんが、ブッダが煩悩を根絶したという話は、初期仏典のページをめくるたびに遭遇します。

 初期仏典の古層に入る複数のデータを捨ててまで、ある一つのデータだけを認めるということは正しい態度ではありません。

 ですから、「ブッダは煩悩をなくしたのではなく、その都度抑えることができたのだ」という論点は、間違っていると思います。

 お釈迦さまは「もう煩悩はない」「根絶した」「終わった」「やることがない」と言いました。

 このことを、たとえまで使って説明しています。

 「ヤシの木の先端を切ってしまえば、その木は二度と生えないように、石が割れたら二度と元通りにならないように、いったん根絶した煩悩は二度と現れない」と明確に説かれているのです。

 つまり、悟りの智慧によって、一度、貪・瞋・痴を根絶させれば、二度と貪・瞋・痴が起こらないようにという意味なのです。

 ブッダは修行によって、貪・瞋・痴が起こらない状況をつくったのです。

 そうなると、あの誘惑のエピソードをどう説明するかという問題が残りますが、中村先生はそれを、お釈迦さま悟ったあとも煩悩があって、それをコントロールして抑えていたかのごとく読み違えたのです。(…以下、略)

(引用終わり。「仏教と脳科学」(有田秀穂先生との対談本)270頁以下)
ぶんぶん
2011/07/29 05:32
 さらに、あんさまの昔のコメントから引用します。

(引用開始)

 アビダンマ講義の長老の音源で興味深い箇所があって
長老と中村元先生との対面でのこと
ある学生さんが中村先生の本へサインを求めた折に
「アッパマーダと書いてください」と長老がいうと
中村元先生は「アッパマーダってなんですか?」
と答えられるんですね
仏教の超一流研究者がそう言うのですから
冗談でしょ・・・・という話ですが

(引用終わり)
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
 スマナサーラ長老は、このように仰っています。

(引用開始)

 誹謗正法とは、仏法を貶すこと。

 仏教の教えをただバカにするのではなく、因果法則を否定するとか、無常・無我を否定するとか、阿羅漢たちの説法を貶して人々が正法を受け取るのを邪魔するとか、真理を自分が根本的に受け付けないで、人にも真理を受け入れないようにさせることです。…中略…

 先に六重罪を犯してしまった人は、今生では、どうしても悟れないことも決まってしまいます。

 その後どんなに頑張っても、重すぎる罪で心が戻らないまま、来世はまず地獄に行かないといけません。それから長い時間をかけて、いつか次に人間に生まれることができたら、その時改めて頑張るしかないのです。

(引用終わり。「ブッダの実践心理学2」サンガ347頁)

 その他、中村先生の翻訳間違いもあります。例えば、スッタニパータの「犀の角」の誤訳があります。スマナサーラ長老が仰るには、「犀(サイ)」が正しい訳だそうです。http://www.geocities.jp/dhammini131/howa375.htmlに理由付きの詳しい説法があります。

ぶんぶん
2011/07/29 05:41
 上記誹謗正法について、協会の事務局長は、限定解釈を加えています。

 簡単にまとめれば、プロの宗教家・思想家でなければ、誹謗正法の主体にならないという限定解釈です。http://d.hatena.ne.jp/ajita/20080625

 しかし、その事務局長の意見によっても、プロの思想家は、誹謗正法の主体になりますから、中村元先生は誹謗正法の主体になりうることになると思います。

 ちなみに、私はこの事務局長の意見には賛成していません。
 ケースbyケースだと思います。誹謗正法は、邪見の中で「特別に大変な邪見」です(スマナサーラ長老著協会発行「宝経」法話)。

 ですから、主体によって限定されているわけではなく、内心の問題だと思います。

 例えば、どんなことがあっても、何があっても、絶対に因果法則は否定となれば、プロの宗教家や思想家ではなくても、やはり誹謗正法罪は成立するのではないかと思っています。経典にも主体による限定というものはないと思います。

 ですが、プロの思想家は、誹謗正法が成立しやすいということはいえると思います。影響力が大きいからです。

 さて、誹謗正法まで行かなくても、ブッダや阿羅漢聖者と私が推測するスマナサーラ長老その他賢者の方々の説法を故意又は過失で曲解するならば、それ相応の悪結果を覚悟しなければならないと思います。

 瞑想が進まないとか、悟りの大きな障害となるとかです。来世のことは私には分りません。

 なので、如何に、中村元先生という高名な学者先生が仰ることと言えども、上に述べたような点(特に輪廻をブッダの教えの逸脱とした話、因果法則を相当に否定しておられる話、ブッダの悟りを煩悩の完全な消滅ではなく抑制とした話)については同調しない方がよいのではないかな?と思います。
ぶんぶん
2011/07/29 05:59
 もう一つ大事なのを忘れてました。中村元先生は五蘊非我説なのです。無我を否定しておられます。先のスマナサーラ長老の誹謗正法の定義に照らし、これにも同調しない方がよいのではないかな?と思います。

 誹謗正法の定義には、無常・無我を否定することが入っています。但し、中村元先生がどこまで本気で無我を否定する意志であったのか、そういうのを検討しないと中村元先生が誹謗正法に該当するかどうかは分りません。

 しかし、誹謗正法まで行かなくても、無我を否定して、五蘊非我をブッダの教えとして世に広めた以上は、それ相応の罪が成立していると思います。

 なお、誹謗正法は因果法則(悪因悪果の法則)の一部ですから、私の判断もどなたの判断も不要で、法則によって成立するものだと思います。
 
 さて、中村元先生の論説だとややはっきりしないところがありますが、そのお弟子様の宮元啓一先生の五蘊非我説の説明は分りやすいと思います。

 私の理解を踏まえた五蘊非我説の説明ですが、五蘊非我説の論者はいきなり何の論証もなく我を措定(措定)・肯定するのです。

 その上で、「色は我ではない、受は我ではない、想は我ではない、行は我ではない、識は我ではない」とブッダの教えを曲解するのです。

 しかし、お釈迦様は諸法無我をはっきりと説いておられます。http://www.j-theravada.net/howa/howa163.htmlのスマナサーラ長老の説法の最後にパーリ原文がありますので、ご確認ください

 anattaaはanが否定の接頭辞で、attaaが我のことだと思います。

 よって、anattaaで無我です。これを五蘊非我論者は非我と読むのでしょうが、「諸」法(「諸」ですから、我という現象も含むと思います)のしばりがかかっていますから、それはできないと思います。
ぶんぶん
2011/07/29 06:56
そこでいう「諸」はパーリ原文ではsabbeですから、サッベー サッター バワントゥ スキタッター(生きとし生けるものがしあわせでありますように)のサッベーと同じ単語と思います。

 サッベー サッターで一切の生命ですね。sabbeは一切のという意味だと思います。

 仏陀は「sabbe(サッベー)」という単語を用いられることで、我を除外するような勝手な勝手な解釈を封じておられると思います。

 ただ、こういう知識から入るのがむしろあべこべで、体験した方々にとっては我がないのは当たり前のことなのだと思います。

 なお、スマナサーラ長老は、初対面、あるいは、御客様系の人はともかく、釈迦と呼び捨てにすることを戒められ、「お釈迦さま」「釈尊」と御呼びするようにしばしばご指導されます。

 聖者を軽んじる発想が、育つと、やがて聖者非難(侮辱)罪を成立させたり、最悪、誹謗正法を成立させる可能性があるからだと思います。
 「彼」が誰を指すのかはっきりしませんが、お釈迦様のことならば、今のうちから改める癖を付けておいたほうがよいのではないかな?と思います。
ぶんぶん
2011/07/29 07:01
 コーサッラ西澤長老のアラナ精舎日記に次のような記載があります(2009年9月20日日曜日「正法非難罪は重業ですか?」より引用)。

 …私の勉強不足かもしれませんが五逆罪に決定邪見を足しているのも見たことがありますが正法非難だけで重業になるとは聞いたことがありません。

 ミャンマーの中で高名なマハーガンダヨン僧院の初代の大長老のアビダンマの解説書に決定邪見を足して六逆罪にする考えは註釈書、復註釈書には見ることができず最近のものだとあります。

(引用終わり)

 スマナサーラ長老の説法によると、スッタニパータの宝経に「チャ チャービターナーニ アバッボー カートゥン」というお釈迦様のお言葉があります。

 この偈について、スマナサーラ長老は、「六種類の罪を犯すことは不可能である。日本訳では重罪を犯すことはあり得ないと。六つの重罪とは、仏陀に怪我させること、母親を殺すこと、父親を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、それからサンガの分裂。…中略…
 で、その五つと邪見に陥ることを加えて全部で六つ、邪見もいろいろあるなかで、或る特別に大変な邪見があります。…中略…
 そういう人々は必ず悪い所へ堕ちてしまうのですね。預流果になった人々は、この六種の重罪は犯せません。不可能だと言っているのです。」
 と説法されています(協会発行「宝経」法話66頁以下)。

 この宝経についてスマナサーラ長老は、「正真正銘の古い経典なのです。」と同著8頁で仰っておられます。

 で、パーリ原文でいうと、「cha(チャ)」が六だと思います。つまり、正真正銘の古い経典である宝経において、お釈迦様が直々に六重罪を説かれているということです。
ぶんぶん
2011/07/29 10:15
 7月24日の昼にスマナサーラ長老が聖者侮辱(非難)罪について説法されました。実は、私は当日の朝、聖者侮辱(非難)罪について慈悲と智慧様のブログにコメントしていたのです。
 
 私は7月24日のこの説法は都合により途中からネット中継をみました。事務局長のtwitterをみるとこれ一つしか質疑応答はなかったようです。
 
 説法を終えた時間からして、大体1時間くらい、スマナサーラ長老は聖者非難について説法されたと推測されます。
 
 瞑想会の前の質疑応答において質問が一つだけというのは少なくとも東京では極めて珍しいと思います。
 
 それだけ、スマナサーラ長老は力を入れて説法されたのではないかと思います。いつも説法したのでは脅しの教えのようになってしまうので、タイミングをみて説法されたのだと思います。

 さて、事務局長のtwitterでは再現できていない重要部分があります。

 スマナサーラ長老がうつむき加減に、重い言葉で、ぼそっと『聖者侮辱はあるんです。』とはっきり仰られたのです(私の記憶)。

 聖者侮辱罪とか、誹謗正法罪というのは、単なるしつけのための方便にすぎず、本当は成立していないのではないかというふうに観ていた人もいらっしゃると思います。
 事務局長のブログ記事http://d.hatena.ne.jp/ajita/20080625、及び、上記アラナ精舎日記は、誹謗正法についてその「傾向」が認められると思います。

 しかし、少なくとも「聖者侮辱はある」とスマナサーラ長老が仰られたのですから、聖者侮辱罪は現実に起こっているのだと思います。

 スマナサーラ長老は、超越した智慧で因果法則を観られた結論を仰られたのだと思います。
ぶんぶん
2011/07/29 13:30
いごは「彼」をわたし自身といいます。
それでもまだじゅうぶんでなく 怒ってますか。
論争はすきではありません。
かがわ
2011/07/29 13:55
 かがわさん。色々あって、カモフラージュしないといけないのです。

 全部を書くわけにもいかないのですが、例えば、私はスマナサーラ長老から、直々に、テーラワーダの長老が執筆者であるアラナ精舎日記に書き込んでくださいと言われています(現在は、コメント欄は閉鎖。ちなみに、私がコメントしてだいぶ2〜3カ月経ってからコメント欄は閉鎖されていますから、私のコメントとコメント欄の閉鎖に因果関係はないと思います)。

 なぜ、答えられないかと言うと、アラナ精舎日記の件で、私は、ブッダの教えに反している事項を多数列挙して、スマナサーラ長老に観て頂いたのです。

 その際、スマナサーラ長老からは「有難い」と言われました。

 そして、その際には、不公平にならないようにアラナ精舎日記の該当記事全文を添付したことは言うまでもありません。

 2カ所(大きくみると1か所)だけ除いて、後日、スマナサーラ長老は私の見解について「内容は正しい」と私の意見にお墨付きを下さいました。アラナ精舎日記の記載には、私が多数列挙した事項についてブッダの教えと違っているところがあるということです。

 しかし、除外されたその2カ所にも実は裏メッセージがあると思われ、それは前の前の私のブログで少し述べたことがあります(今は私のブログはありません)。

 しかし、私が行動を起こしたことで、協会の超中心的人物(エム先生もご存じの男性)が、この件で、ある女性の方に嫌疑をかけ、スパイ扱いし、本堂に呼び出すという事件がありました。
ぶんぶん
2011/07/29 14:04
 が、この方は、全く何の事情も知らなかったのです。ですから、完璧な冤罪です。

 で、この協会の超中心的人物は、「アラナ精舎日記を作成しているテーラワーダの長老が困っている」(実際には長老の具体名を言っています)、「そんなにスマナサーラ長老の言うことを聞かなくても」という驚くべき発言をされたのです。

 一般には、スマナサーラ長老べったりの人物と思われていると思います。

 これは既に起こった事件ですから、話せますが、その他のことを話すとまた誰かにご迷惑がかかるかもしれません。

 それ故、他のことについて答えることはできないのです。
ぶんぶん
2011/07/29 14:04
 一度お読みになられているかもしれませんが、私が許された範囲でコメントします。

 私はもう5年半以上前のことになりますが、スマナサーラ長老からこのように言われています。

 @ 冥想が進んでいる。

 A 私が冥想が進んでいると言ったら相当に進んでいるんです。

 B 阿羅漢になる資質がある。

 これは初心者冥想指導を受けて1年半くらい経ってのことになります。スマナサーラ長老の説法を受けたのもその時が初めてです。

 ちなみに、最初に初心者冥想指導を受けた時、スマナサーラ長老は、「この中に最後まで行く人がいる」と仰られました。

 初心者冥想指導に参加していた人は当時は少なく5人でした。
 そのうち、3人は、私が知る限りその後来ているのを見たことがありません。
 もう1人は私が知っている人ですが、このスマナサーラ長老の発言すら覚えてはおりません。

 ちなみに、私がスマナサーラ長老に「最後まで行きますか?」とか、「冥想が進んでいますか?」とか「資質がありますか?」とか伺ったことは一度もありません。

 全てスマナサーラ長老の方から仰られたことです。

 なお、冥想修行をしている人の場合には、自分が体験していることでも「…と思う」と書くこともありますし、スマナサーラ長老のお言葉を借りることもあると思います。
 少なくとも私はそうです。
 そうしないと高慢になるからです。
ぶんぶん
2011/07/29 14:15
 ちょっと、話戻りますが、7月24日、スマナサーラ長老じゃうつむき加減に、重い言葉で、ぼそっと『聖者侮辱はあるんです。』とはっきり仰られたのした(私の記憶)。

 それと、スマナサーラ長老の聖者非難(侮辱)罪について事務局長がtwitter中継したものを引用しておきます。

 「(聖者非難について)聖者は覚りに達した方々 四沙門果の人。」
「聖者を侮辱する噂を流すと自分が地獄に落ちるだけではなく、多くの人々の心を汚し覚りの道を閉ざす。」
「聖者を侮辱した場合は、本人に謝らないといけない。聖者侮辱は相当危険。本人に会えるかという問題ある。」
「聖者を侮辱したら本人に謝る。本人が亡くなっているなら、想像を絶する損。」
「相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。」(引用終わり)

 最後の部分は、聖者であることを知らなくても、聖者非難(侮辱)罪は成立するという意味です。

 聖者でないと勘違いしていても、聖者非難(侮辱)罪は成立するわけです。
ぶんぶん
2011/07/29 14:24
 スマナサーラ長老「じゃ」はスマナサーラ長老「は」の間違いです。キーボード打つ時にhの隣にあるjを打ってしまったようです。

 ところで、スマナサーラ長老の説法を引用します。

(引用開始)

 弁解になるのは仏陀の教えは「正しい」ということです。それはお釈迦様は弟子たちに堂々とやりなさい。と命じています。ブッダが出家、在家の弟子たちに期待することの一つです。修行することは置いといて。

 世の中で生きている間、この大事な、正しい教えをあなた方は自分の力で弁解できるのか。

 世の中は非難しますよ。これは当たり前。仏教に逆らって大衆がサーッと立ち上がるんです。

 それで、あなた方は一人、二人であろうと弁解が出来ますか。仏陀が教えることは正しい。と成立させることが出来ればOKだと。

(引用終わり。http://www.geocities.jp/dhammini131/howa124.htmlなお、以前にDhamminiさまより引用の許可を得ています)
ぶんぶん
2011/07/29 14:48
ながいね、。
要点はこうでしょうか。
なにがあってもわたしはまえへすすむ。
それでいいのです。
かがわ
2011/07/29 15:08
 井沢元彦氏によれば、徳川家康は水戸家に密命を出していたそうです。水戸家と言えば、天皇家に対する忠義の篤い家ですね。

 その密命は、争いが起こった場合には、「水戸家は、徳川将軍家ではなく、天皇家につくように」という驚くべき内容だったのでした。

 しかし、書面の証拠はないのですね。

 井沢氏は、「密命を書面に書く馬鹿がどこにいるか!」と仰っておられたと思います。

 至極ごもっともだと思います。

 現代社会では、密命を書面に書いたりすることもありますが(多分西洋文明は書面重視だから)、後で情報公開された時に大問題になることは皆さまもよくご存じと思います。

  薩長同盟のときも、薩摩と長州では、書面は作らなかったと聞きます。密約です。

 しかし、桂小五郎(長州の第一人者で代表的立場)が悪く言えば神経質で、よく言えば慎重で、坂本竜馬に薩長の打ち合わせ内容を記した手紙を書いて、裏書きを求めたのです。

 それが残っているため、書面上の証拠が微妙にあるわけです。私の理解では。

 しかし、薩長の署名が入った完全な書面は少なくとも今のところは発見されていないと思います。正式同盟文書はないということです。

 基本的には、密命は状況証拠でしか立証できないと思います。

 が、錦の御旗が翻ったのは、徳川ではなく、薩長だったのでした。天皇家は薩長の側についたのです。

 なお、かがわさん宛てではない裏(うら)メッセージに重点があります。
ぶんぶん
2011/07/29 15:14
 スマナサーラ長老が、個人面談の場で、「悟った人は悟ったとは言いません。自我がないからね。言うこともあるけどね。修行仲間が罪を犯した場合とか。」と仰られた記憶があります。

 修行仲間が罪を犯した場合に、阿羅漢聖者が悟ったことを言うことがあるのは、聖者非難罪により、瞑想が進まなくなったり、来世が悪くなったりする危険があるので、懺悔・謝罪の機会を与えるという趣旨だと思います。

 なお、預流果には自我が残っていますから悟ったという可能性は論理的にはあります。しかし、阿羅漢聖者を深く尊敬していますから、阿羅漢聖者のなされ方を踏襲されると思います。
 つまり、原則悟ったとは言わない、されど、例外はあるという意味です。

 もう一度スマナサーラ長老の説法を引用しておきます。

 「相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。」(引用終わり)

 聖者であることを知らなくても、聖者非難(侮辱)罪は成立するという意味です。

 聖者でないと勘違いしていても、聖者非難(侮辱)罪は成立するわけです。

 また、スマナサーラ長老はこのように仰っています。

「(聖者非難について)聖者は覚りに達した方々 四沙門果の人。」
「聖者を侮辱する噂を流すと自分が地獄に落ちるだけではなく、多くの人々の心を汚し覚りの道を閉ざす。」
「聖者を侮辱した場合は、本人に謝らないといけない。聖者侮辱は相当危険。本人に会えるかという問題ある。」
「聖者を侮辱したら本人に謝る。本人が亡くなっているなら、想像を絶する損。」 (引用終わり)
 
 そして、スマナサーラ長老は、7月24日、重い言葉で、ぼそっと『聖者侮辱はあるんです。』とはっきり仰られたのした(私の記憶)。
ぶんぶん
2011/07/29 15:21
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