幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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zoom RSS ◆かっこいい生き方

<<   作成日時 : 2011/07/29 06:45   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 0 / コメント 14

どんな生命でも
平等に見られることがいちばんクールで、
かっこいいことなのです。




誰かに対して、「この人はどうしても合わない」と思った
ことはありませんか?

そんなときは、この世には自分と合わない存在があることを
認めてしまうことです。

好き嫌いの感情には、理屈では解明できない部分があります。

してはいけないのは、気に入らないからといって、いじめたり、
差別したり、攻撃を加えたりすることです。

といって、無理に合わせる必要もありません。

この人とは性格が合わないということを受け止め、自分も
相手もひとつの生命だと認めればいいのです。



「自分は自分、他人は他人」のスタンスでかまいません。

画像


こう考えると、嫌いな気持ちが少しずつ治ります。
「嫌い」という気持ちを外して淡々と接すると、相手も歩み寄って
きます。

合わない同士だからこそ、注意深く接するので、パズルのピースを
はめていくように関係がうまく進み始めます。

あらゆる生命を平等に見れば、人間関係で苦しむこともなくなります。

いままでよりずっと楽に生きられるのです。


「こころを清らかにすることば」
アルボムッレ・スマナサーラ長老著書

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コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
キガタヒメマイコドリですね
とうま
2011/07/29 07:57
 スマナサーラ長老の説かれる仏陀の教えを中心に仏教を学んでいる方々というのは、最高レベルの教えを学んでいるわけです。

 それが逆に色眼鏡になって、学者先生や、他のテーラワーダの長老が、大したこと語っていないのにかさ上げして読んでしまうということもあるように思います。

 例えば、今あんさまのブログの頭書にある「さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。」というのは、中村元先生の訳なのです。

 これは、スマナサーラ長老の下で学んでおられなかったら、「比丘たちよ、君たちそのうち死ぬんだから修行しなさい」という程度の意味で理解する話だと思います。

 スマナサーラ長老が「無常の見方」(サンガ)で説いておられるような超ハイレベルな諸行無常を念頭において訳しておられるとはとても思えません。

 真理としての無常を説いておられるのではなく、単にお釈迦様が入滅されるときに、お釈迦様が感傷的になって、比丘たちに「君たちも死ぬんだよ」みたいな形で訳しておられるように感じます。

 ブッダの教えはuttari manussa dhamma(超人法)を特色としますが、中村元先生は、ブッダの超人性を認めず、単なる人間、優れたおじいさん程度にしか捉えていないように感じるのです。

 中村元先生は、お釈迦様の超越した智慧を認めておられるとはとても思えませんし(例えば前記事コメント欄で中村先生の本を引用しましたがブッダの教えとして輪廻を認めず、因果法則も相当に否定しておられます)、

 また、煩悩が完全に消滅していることを認めておられないことも前記事コメント欄でスマナサーラ長老の説法を引用したとおりだからです。
ぶんぶん
2011/07/29 17:35
続き)しかも中村元先生はそこにおいて引用したスマナサーラ長老の説法から明らかなように、悟りを煩悩の完全な消滅ではなく、単なる煩悩の抑制の意味に曲解しておられるわけです。

 すると、「怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。」という中村元先生の訳も、「怠けないで、その場、その場で、煩悩を抑制する程度に修行を完成させなさい」という程度の話です。

 スマナサーラ長老は、「自分につよくなる」(国書刊行会)94頁において、アッパマーダを「気づきのある状態」と訳されましたが、これは気づきの完成者である阿羅漢聖者になるヴィパッサナー実践と理解されます。

 それは煩悩を完全に消滅させるのに導く実践方法なわけです。

 全然レベル・次元が違います。

 ところが、スマナサーラ長老は、編集者によっては、この中村先生の話に合わせながら、説法することもあるのです(例えば「日本人が知らないブッダの話」(学研)235頁)。

 なぜこの編集者に合わせて説法されたのでしょうか?

 私が思うに、スマナサーラ長老は、「アッパマーダが気づきのある状態であることは、私が何度も説法しているでしょう。それは私の阿羅漢果まで悟った体験に基づくもので、サティの完成者としての私の自然な心境を現わすものでもあります。そのことに気づく程度にヴィパッサナー修行をしなさい。」という愛の鞭だと思います。

 知識に偏り過ぎてますよと仰りたかったのではないかと思うのです。

 ここは編集者(正確には編集協力者)の方に、訂正を期待されていたところではないかと思います。私は全く期待しておらないのですが、残念ながらスマナサーラ長老はまだまだこの方に期待されているように感じます。
ぶんぶん
2011/07/29 17:43
 ぱんさんのブログ、一部削除も考えておられるようなので、3つほど引用させてください(若干修正して引用します)。なぜ引用するかというと、重大な裏メッセージを込めているからです。

 J・クリシュナムルティ尊者は、スマナサーラ長老が「…生まれる前に預流果にはなっていたのだろう。…」と仰っておられ生まれながらにして預流果であることが推測され、また、「自我がないことが見えるのです」とまで仰っておられることから、今世で阿羅漢聖者になられたことが推測できる方です(ブッダの実践心理学2サンガ345頁以下)。

このクリシュナムルティ尊者がマイケル・クローネンという人と次のような会話をしています。

「クリシュナジ、昨日のランチの折、空腹ですかと私は尋ねました。するとあなたは決して空腹ではないと言われた―お忘れでしょうか」

「ええ、その通りです」

「ということは、あなたには空腹感はないという意味ですか?」…中略…

「肉体は空腹を感じません。経験してみたことがあります。一週間何も食べませんでした。水を少々飲んだだけです。」

「そして空腹感は少しもなかったのですね。最初のうちもですか?」

「少しの空腹感もなかった。しかし、身体は少しずつ弱ってゆきました。最後には食べなくてはならなかった。さもないと・・・」

彼はなげやりな身振りで身体がどんどん衰弱していく有様を示しながら、言葉を締めくくった。

(引用終わり、「キッチン日記」マイケル クローネン著 高橋重敏訳 星雲社 101頁)
ぶんぶん
2011/07/29 20:03
続き@) 5年ほど前のことですが、スマナサーラ長老は、熱海瞑想合宿において、一食もとっておられなかったそうです。

 ただし、かばんの中にカロリーメイトは持っておられたようです。が、それを食べたところは見ておられないようです。
 
 私の推測では、スマナサーラ長老は、後述する煩悩がないことにも気づかれないようにするためにカロリーメイトを持っておられたのです。

 その人は私が観る限り探りを入れるような人だからです。

 また、しんちゃんさんが、「5年前でなくとも、スマナサーラ長老は瞑想合宿の時は、何も口にされない。と瞑想合宿に行った人から聞いたことがあります。」というご発言をされたこともあります。

 お釈迦様は「空腹感というのは、如何なる病よりも最大の病なのです。」と仰っておられます。

 阿羅漢果に覚られた方は、空腹感もないのだと思います。

 ちなみに、合宿所で、スマナサーラ長老が食事をとられないことがかなり多くの人に知れ渡ることになったからだと思いますが、1〜2年ほど前の合宿でスマナサーラ長老が他の方々と一緒に食事をとられたという情報も聞いています。

 覚った方は、「単に他人のことを一々知りたがる性格の人が自分を調べていると分かったら(そのようなことは悟りの人に簡単にばれます。)煩悩がないことにも気付かないようにするのです。」

(スマナサーラ長老の説法。http://www.j-theravada.net/qa/qahp25.html)
ぶんぶん
2011/07/29 20:07
続きA) なぜ、覚った方が煩悩がないことにも気づかないようにすることをスマナサーラ長老は御存じなのでしょうか?
 こんなことはパーリ経典にも書いていないと思います。

 このように煩悩がないことにも気づかれないようにすることが慢が滅した阿羅漢聖者にとっては自然なことなのだと思います。よって、スマナサーラ長老の心の状態をそのまま語られたものと思います。

 その文章に続けて、スマナサーラ長老は次のように仰っておられます。

(引用開始)

 本当のことを言うと、悟りを開いてこころを平安にした方は「私が悟ったと」自分の立場を認めて欲しくて馬鹿なことを言わないが、論理的に具体的にこころの状態を堂々と他人に説法をするとき言っているのです。なのに、第三者が全く気がつかないのです。

(引用終わり)
ぶんぶん
2011/07/29 20:08
続きB) 大般涅槃経で、お釈迦様が「アーナンダよ、そなたは私のために水を持ってきてほしい。アーナンダよ、私はのどが渇きました。飲みたいのです。」と仰られたところ、

 アーナンダ尊者が、「尊師よ、たった今、五百台の車が通り過ぎました。そのため、水は車輪で断たれ、少なく、乱され、濁って流れています。…」と仰られ、遠くないところに清らかな水があるのでそこで水をお飲みになることができますと答えられたという話があります。

 しかし、これと同じやり取りがもう一度なされ、その上で、お釈迦様は三たび「アーナンダよ、そなたは私のために水を持ってきてほしい。アーナンダよ、私はのどが渇きました。飲みたいのです。」と仰られたのです(以上、「   」内は大蔵出版のパーリ仏典長部大篇T275頁以下の片山一良先生訳)。

 これをもってお釈迦様はのどが渇いていたというふうに読む人が仮におられたとします。
 それはあまりにも理性がなく、理がなく、読解能力が乏しい方だと思います。

 口ではお釈迦さまを尊敬するようなことを言っているかもしれませんが、猜疑心が強く心の中ではお釈迦さまを誹謗することを考えているようなデーヴァダッタ的人物だと推察できると思います。

 お釈迦様の三度目の言葉を受けて、アーナンダ尊者が水を汲みに行きました。しかし、濁っていたはずの水が、澄んで清らかに濁りなく流れていたのです。

 そこで、アーナンダ尊者は、お釈迦様の大神力、大威力を讃嘆されたのです。

 つまり、お釈迦様はご入滅の間際に、アーナンダ尊者に、特別に、水をも直ちに浄化することができる大神通力があることをお示しになられたと理解されます。そのために、アーナンダ尊者に水を汲みに行ってもらったのだと思います。
ぶんぶん
2011/07/29 20:10
続きC) 以上でぱんさんのブログにおける3つのコメントからの引用は終わりです。加筆修正したので少し長くなりましたが、カロリーメイトのあたりの記述を加筆し後は誤字やクリシュナムルティ尊者についての出だしの部分を少し修正したりしました。既にお読みの方で読み返す気力のない方は、カロリーメイトのところだけお読み頂ければと思います。

 さて、お釈迦様には水をも直ちに浄化できる大神通力が御有りになったわけです。そして、その大神通力は、侍者第一であられたアーナンダ尊者に開示されたのです。そこにアーナンダ尊者に対する特別な信頼のようなものがあるように思います。

 さて、おそらく上の事例では泥か何かで水が濁って汚れていたのをお釈迦様は大神通力で浄化されたと思います。

 目に見えない放射能性物質ではありません。

 しかし、お釈迦さまは、地水火風、つまり、素粒子レベルで猛烈なスピードで変化するデータのレベルで、物質を観ることができるわけです。

 お釈迦さまからすれば、泥であろうが、放射性物質であろうが、いずれも素粒子レベルで猛烈なスピードで変化するデータとしての物質であることに変わりはないと思います。

 だから、お釈迦様は、おそらく泥水を浄化されたのだと思いますが、泥水を浄化して清らかな水にする大神通力が御有りである以上、水が放射性物質で汚れていても、直ちに浄化して清らかな水にする大神通力が御有りだったと思います。

 そして、その大神通力は、侍者第一であられたアーナンダ尊者にのみ直接には開示されたのです。

 私が言いたい裏(うら)メッセージがお分かりになられるでしょうか?
ぶんぶん
2011/07/29 20:28
続きD) 仏教史や大乗仏教からスマナサーラ長老が説かれる仏陀の教えに入られた方も多いと思います。
 また、テーラワーダの知識的論理性に魅かれてスマナサーラ長老が説かれる仏陀の教えに入られた方も多いと思います。
 
 だからだと思いますが、スマナサーラ長老はサーリプッタ尊者のような方であると思っている人が多いように思います。
 
 そして、別のあるマハシ式の長老をモッガラーナ尊者のような人と思っている人もいるような感じがします。

 私は、大乗仏教も何も経由していません。禅宗での禅の経験もありません。ただ、子どもの頃から両親もしない瞑想を、我流で時々する癖のようなものがありました。
 最終的に私が行った瞑想は、妄想をしないよう努力する瞑想でした(ただし実況中継はしないし、明確に観察はしない。ただ妄想はしないようにして音なら音を聞く冥想)。
 
 で、私は、そこからスマナサーラ長老の説かれる仏陀の教えに大乗を経由することなくダイレクトに飛び込んだのですが、ヴィパッサナーに凄さを感じてそこから入ったのです。

 私が苦が仏教の第一の真理であることを知ったのは、スマナサーラ長老のヴィパッサナーの本を初めて読んでから約2年半後、初心者冥想指導から約1年後のことでした(今から6年くらい前)。
 
 そういう私からすると、モッガラーナ尊者のように思われている別の長老は、全然瞑想指導はできません。
 
 私からすれば、スマナサーラ長老はモッガラーナ尊者を思い起こす瞑想の達人でもあられるのです。もちろん、サーリプッタ尊者を思い起こす説法の達人でもあられます。

 するとです。私は、スマナサーラ長老を通じてお釈迦さまを観るのです。
ぶんぶん
2011/07/29 21:00
ぶんぶん様
長文を1日に、何度も投稿されるのは
今後やめていただきたいと思います。
同じ内容の文は過去に何度も読ませて
頂いております。

『たとえ真理であろうとも遠慮する配慮』
も必要かと、私は思いますので。
文章で心中の全部を書き表すのは
とうてい無理だということも
解かっておられると思います。

真理が伝わるかどうかも
人の受け取る側によっても異なります
コメントに時間を割いて申し訳ないです。

今後は1日1回までのコメントでセーブ
して頂きたいと存じます。
生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/07/30 07:16
 スマナサーラ長老がアパーヤ(地獄・畜生・餓鬼)に関連して仰るには、「罪の意識がないということも危ない」そうです(「死後はどうなるの」国書刊行会190頁)。

 スマナサーラ長老が、個人面談の場で、「悟った人は悟ったとは言いません。自我がないからね。言うこともあるけどね。修行仲間が罪を犯した場合とか。」と仰られた記憶があります。

 修行仲間が罪を犯した場合に、阿羅漢聖者が悟ったことを言うことがあるのは、聖者非難罪により、瞑想が進まなくなったり、来世が悪くなったりする危険があるので、懺悔・謝罪の機会を与えるという趣旨だと思います。

 なお、預流果には自我が残っていますから悟ったという可能性は論理的にはあります。しかし、阿羅漢聖者を深く尊敬していますから、阿羅漢聖者のなされ方を踏襲されると思います。
 つまり、原則悟ったとは言わない、されど、例外はあるという意味です。

 もう一度スマナサーラ長老の説法を引用しておきます。

 「相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。」(引用終わり)

 聖者であることを知らなくても、聖者非難(侮辱)罪は成立するという意味です。

 聖者でないと勘違いしていても、聖者非難(侮辱)罪は成立するわけです。

 また、スマナサーラ長老はこのように仰っています。

「(聖者非難について)聖者は覚りに達した方々 四沙門果の人。」
「聖者を侮辱した場合は、本人に謝らないといけない。聖者侮辱は相当危険。本人に会えるかという問題ある。」
(引用終わり)
 
 そして、スマナサーラ長老は、7月24日、重い言葉で、ぼそっと『聖者侮辱はあるんです。』とはっきり仰られたのした(私の記憶)。

 何度もチャンスは与えられないのではないかとも思います。
ぶんぶん
2011/07/30 07:52
続き) スマナサーラ長老が、「世界中観まわしてみても、私より冥想指導できるものはいない」というようなことを仰られた記憶があります。
 
 新さんが一度記憶に基づいて引用されておられましたね。

 私の記憶に基づく表現は、案内図的に要約したものですが、より厳密にお知りになりたい方は、「『私のライフワーク』の見つけ方」(V-195)の途中において、スマナサーラ長老が述べておられますので、お聴きになられては如何かと思います。

 例外はあるということの証拠となっていると思います。
ぶんぶん
2011/08/03 23:32
 日が変わっておりますので本日のコメントをさせて頂きます。http://photo-tetujin.sblo.jp/article/47130333.html#commentに旅人のハンドルネームでコメントしましたので、御読み頂ければと思います。
 冤罪事件への反論です。

 ところで、なぜ私が直前のスマナサーラ長老の「世界最高の冥想指導者」ご発言のDVDまで覚えているかと言うと、特別な事情があるからです。

 そのDVDの基となった説法は2009年3月28日代々木のオリンピックセンターで行われることになっていたのです。

 しかし、当日、オリンピックセンターに行ってみると急遽、会場がゴータミー精舎に変更になっていました。

 代々木からゴータミーに当日変わったというのは、これまでのところ私の記憶では1回しかありません(ただ、ここに書いた以上、煩悩がないことにも気づかれないようにするために、これからはそういうこともあるかもしれません)。

 だから、これは表向きの理由はともかく、スマナサーラ長老が、ブッダの教えを壊している者がいることの警告と、聖者侮辱を犯した者がいることなどを考慮されて、「世界最高の冥想指導者」ご発言をされることを、あらかじめ決めておられたのだと思います。

 会場変更をすることで、私のようなものがその日付、場所を容易に記憶することができるようになります。

 そうすれば、後で、事後的に、この説法を生で拝聴することが出来なかった人も、DVDで拝聴し、本当に事実としてあったご発言なのかどうか確認できるわけです。特に、西の方々が。
ぶんぶん
2011/08/04 18:11
続き) とにかくあの方は、冤罪事件を繰り返していらっしゃるわけです。かつても、公の場で、裏メッセージの話を否定し、妄想病気扱いするということがありました。

 しかし、あの方が気づいていない事実があります。

 実は、スマナサーラ長老が、超越した御力で、つまり、言葉の外で心の波動で、時に遠距離でも説法・冥想指導しておられるという事実をも否定することになっていることです。

 このことに確信ができない方は、仮にスマナサーラ長老がこのような説法・冥想指導を行っていると仮定してみてください。

 そのような超越した智慧・力をお持ちであるスマナサーラ長老の説法・冥想指導を否定するならば、聖者侮辱(非難)の罪はとてつもなく高まると思います。

 まず、@スマナサーラ長老は超越した智慧・御力で、言葉の外でも心の波動で説法・冥想指導しておられる、という前提に立った上で、しかし、A私にはそれを確認するだけの智慧・能力がいまのところはないから、「保留」にして確かめてみる、というのは正しい態度だと思います。

 それならば、別にスマナサーラ長老を誹謗するような特別の事情がない限り、聖者侮辱(非難)罪は成立しないと思います。

 聖者侮辱(非難)罪は、スマナサーラ長老の説法にありましたが、聖者であることを知らなくても成立します。

 http://twilog.org/jtba_talk/date-110724/ascのスマナサーラ長老の説法の流れからすると、最後に大乗仏教の話が出ていて、「侮辱」という単語も出てきますから、大乗仏教に聖者侮辱(非難)罪が成立していることを説かれているようにも読めます。
 
 その場合は成立主体は、経典の作者とか猛烈に盲信している人とか主体は限定されると思いますが。
ぶんぶん
2011/08/05 10:24
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