■「自灯明・法灯明」
ブッダが説かれた「自灯明・法灯明」は、同義語です。
仏教では、自分=法です。
我々が修行するとき、修行の宿題とは何なのでしょうか。
それは生きている自分です。
自分とは「生きている」というシステムです。
ブッダの「法」とは、この「生きている」システムの説明のことです。
だから、法=自分なのです。
執着から苦しみが生まれることはどこで研究するのかといえば、「自分」です。
同時に「執着から苦しみが生まれる」というのは普遍的な「法」なのです。
渇愛でひどい目にあっているのは自分ですから。
そういうわけで、自灯明・法灯明は同義語です。
この言葉は革命的な教えなのです。
「自灯明、法灯明」の一言で、
ブッダは一切の宗教・信仰の世界を捨てているのです。
宗教の世界とは、全知全能の神や如来、永遠の魂、聖地、グル、
そういった絶対的な存在に頼るものです。
でも私たちが悟りに達するためには、何もいりません。
この身体に、すべて揃っています。
悟りに必要な宿題はすべて、条件も何もかも。
他の何にも、頼る必要はないのです。
悟りに達するとは、
「生きることは苦しみである」と発見することでしょう。(苦聖諦)
私たちは「いま・ここ」に生きています。
宿題は自分ですから、場所は関係ない。
だから、頼る・依存するということは
はじめから成り立たない。
私たちは「いい言葉だなぁ」と感心するだけなのですが、
お釈迦様は
驚くべきことを語っているのです。
世界にある、あった、これから現れる
すべての宗教・信仰を粉々にしてしまう真理の言葉。
それが「自灯明・法灯明」なのです。
B.E.2553/2009 9月パティパダー「智慧の扉」
A・スマナサーラ長老
仏教では、自分=法です。
我々が修行するとき、修行の宿題とは何なのでしょうか。
それは生きている自分です。
自分とは「生きている」というシステムです。
ブッダの「法」とは、この「生きている」システムの説明のことです。
だから、法=自分なのです。
執着から苦しみが生まれることはどこで研究するのかといえば、「自分」です。
同時に「執着から苦しみが生まれる」というのは普遍的な「法」なのです。
渇愛でひどい目にあっているのは自分ですから。
そういうわけで、自灯明・法灯明は同義語です。
この言葉は革命的な教えなのです。
「自灯明、法灯明」の一言で、
ブッダは一切の宗教・信仰の世界を捨てているのです。
宗教の世界とは、全知全能の神や如来、永遠の魂、聖地、グル、
そういった絶対的な存在に頼るものです。
でも私たちが悟りに達するためには、何もいりません。
この身体に、すべて揃っています。
悟りに必要な宿題はすべて、条件も何もかも。
他の何にも、頼る必要はないのです。
悟りに達するとは、
「生きることは苦しみである」と発見することでしょう。(苦聖諦)
私たちは「いま・ここ」に生きています。
宿題は自分ですから、場所は関係ない。
だから、頼る・依存するということは
はじめから成り立たない。
私たちは「いい言葉だなぁ」と感心するだけなのですが、
お釈迦様は
驚くべきことを語っているのです。
世界にある、あった、これから現れる
すべての宗教・信仰を粉々にしてしまう真理の言葉。
それが「自灯明・法灯明」なのです。
B.E.2553/2009 9月パティパダー「智慧の扉」
A・スマナサーラ長老
