★感謝して生きる(3)

では「感謝して生きる」ってどういう意味?
人生は苦だったらありがたくないでしょう。
感謝しながら生き続ける馬鹿がいるのですか。


だから、智慧の角度から見れば、感謝するものではなくて、
命というのは捨てるべきものなのです。

「生きていたい」という欲を捨てるべきものなのです。

その両方まとめて理解しないといけないのです。
一部だけ学んでもだめなのです。



「ご飯を作ってくれてありがとう」と言っても、
ご飯食べたら、その分長生きしちゃうでしょう。

一週間ぐらいでも、これ苦しいでしょう。
「私の人生、一週間苦しませてくれてありがとう」
ということになるのです。

では、もう末期の人のこと考えてください。
もうなにも自由じゃないし、体は極限に苦しいし、
息もできないし、食べられないし、それで生命延命機械に入れるでしょう。


その患者さんが「先生ありがとうございます」と言っちゃうと、
どんな意味ですかね。

私を死なせないで、この苦しみを延ばしてくれてありがたい、ということでしょう。

息できなかったら人はたちまち死ぬでしょう。

呼吸ができないということは全部器官がこわれていることでしょう。


だから、呼吸するとすごく苦しいのだから、呼吸できなくなくなってしまったのですね。
機械がやってしまっても、同じ苦しみなのです。


食べることができなくなったら死ぬべきでしょう。
胃が働いてないのです。
腸も働いてないのです。
消化する機能がなくなっているのだから、ものすごく苦しいと思いますよ。


しかし、この血管に栄養剤入れると細胞は死なないでしょう。
どれほど苦しいと思いますかね。

働かない消化器官、長い大量な消化器官持っていて、
肝臓、腎臓とか、これが故障中でしょう。

復活不可能、修理不可能。
それをそのまま放っておいて、ここら辺に栄養を与えている。

だから、かなり苦しみの延長なのですね。
それを、ありがとうと言うべきか。

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だから、生きることは苦であるというスタンスで見ると、
感謝するどころではなくて、

解脱しようではないかということです。

生に執着しないで、捨てましょう。

その時点では親にも執着しない、子供にも執着しない、
仕事にも執着しない、自分の命にも執着しないのです




社会人として人間として感謝するということは、
これは当たり前であって、呼吸することと同じことです。

それは、生を正当化するか、苦で見るかという、スタンス二つなのです。



生を正当化するならば、呼吸と同じくあなたには感謝する義務が入っています。
生を苦で見るならば、解脱することが道徳になるのです。

そうすると感謝することが非道徳なのです。

それは、生にまた執着するんだからです。道が間違っているのです。

その二つを合わせたら仏教なのです。
そんなに簡単ではないのです。


感謝しなきゃ駄目で、感謝したら駄目の話しなのです。





まあ、一応皆さまは一般の次元で考えているのですからね。

「感謝するべき」ということは、「我は呼吸しているのだ」
ということほど当たり前だということです。

遠慮をしたり、ちょっと恥ずかしくてできないとか言ってしまうと、
これはもう極悪ですね。


遠慮も恥ずかしいも、そんなことはなんでもないのだと思って、

もう片っ端から感謝しまくっちゃった方がいいのです。



日本では、まあ言葉だけですから、どうしてもしやすいでしょう。


私たちとは違いますからね。
結構智慧が必要ですよ。

私にもいろんな人の、特に子供たちのことは気持ちよく面倒見ます。

あいつらから一度でも「ありがとう」というのは、言われたことがないのですね。
言われたことがないのだけれど、

よく知っていて、感謝の気持ちでいっぱいだと、私はよく分かっているのですね。

それはものの見事に表現するのです。

自分の国でも「ありがとう」という言葉を言うということは、
あくまでも形式的で、儀式だけになっているのです。

小さな子供たちに、言葉を習って慣れてもらいたいのだから言わせるだけで。

自分で言葉をしゃべれるようになったら、
あんまり使わないで、自分で考えて行動しなさいと教えます。
                                   <おわり>




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平成22年11月3日
兵庫県三田市マーヤーデーヴィー精舎での
A・スマナサーラ長老ご法話より抜粋致します

テキスト作成:小山忠久さん
編集:水川芳子