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zoom RSS ★無防備な認識の玄関口

<<   作成日時 : 2012/06/25 21:37   >>

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さらに遡っていきましょう。
なぜわれわれは、身口意の誤った行為をするのでしょうか?
それは「六根」を制御していないからなのです。
六根というのは、眼耳鼻舌身意であり、
外部の情報の入口だということは
すでに解説しましたね。


認識のいちばんはじまりの部分。
情報が触れる部分です。
そこが開けっぱなしなのです。


認識の玄関口が無防備に開いていて、
そこから勝手にデータが入ります。

勝手に入ったあとは勝手に認識が生まれます。

かならず主観で合成した認識です。
その合成プロセスをまったくコントロールしていません。




ですから、間違った言葉をしゃべります。

間違った思考をします、

間違った行為をします、


というふうになるのです。

気づきがないから制御もしない

では、なぜわれわれは六根を制御しないのでしょうか。

それは、気づきがないからです。
「気づきがない」というのは、
気楽で気ままに生きているという意味でもあります。



正しく見ないから制御もしない


気づきがないということは、「物事をしっかり見ようではないか」
という気持ち、「正知」がなく生きているということです。
意識をしっかり保って、物事をシャープに認識するということがありません。

画像




われわれには「如理作意」(にょりさい)がない

では、さらに遡って、なぜわれわれは気づきがなく
生きているのでしょうか。
それは「如理作意」がないからです。


「如理作意」というのは、あまり聞いたことのない単語だと思います。

わかりやすく伝えたくても、この単語についてはわかりやすい
日本語が思いつきません。
ですので伝統的な仏教用語で語るしかありません。

パーリ語では「ヨーニソー マナスィカーラ(yoniso manasikara)」
といいますが、パーリ語の単語そのままで理解するしかないのです。

それが「如理作意」となります。

「作意」というのは、認識する働きのことです。
心を働かせることを「作意」というのです。

「如理」というのは、ありのままに、きちんとデータに沿って、
順番で丁寧に心を働かせることです。


つまり「如理作意」というのは、ありのままにデータを
丁寧に入れて認識する心の働きです。


これは、誰もやっていません。
誰もが、無防備に六根にふれる情報をそのまま、
気ままに心に任せて処理しています。

たとえば、本を読む場合、「知識は勝手に入るでしょう」
と思ってただ読んでいくような感じです。



「如理作意」の読み方なら、「これだからこうなって、これだからこうなって、
なるほど」というふうに、理論的にいちいち分析して、
心を働かせて丁寧に頭に入れていくことになります。




<P127〜P129>





【バカの理由】A・スマナサーラ大長老

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